明智光秀の歴史年表!わかりやすくまとめてみた
明智光秀と言えばなんてって本能寺の変を起こした事で有名な人物ね~!
若かりし頃については結構謎が多い人物なんだけど、
ざっくりわけると光秀の歴史は美濃で過ごした時代、朝倉氏・将軍と関わっていた時代、信長に仕えた時代…って見るとわかりやすいかもしれないわね。
今回は明智光秀の歴史を簡潔に、補足を添えてなるべくわかりやすい年表にしてみたわよ~!
ゆるりと見てってね~♪
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明智光秀の年表
??年 | 明智光秀、誕生
生年は1516年?1528年?それとももっと後? ハッキリとわかっておらず、幼少期をどう過ごしてきたか、といった事もほとんど不明。
だが、美濃で生まれたと言われている。明智氏が美濃の守護・土岐氏の支流とのことであり、美濃で生まれたと言われている。
父とされる人物が斎藤道三に仕えていたので、その流れで斎藤道三に仕えていたと思われる。 |
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1552年 | 美濃守護・土岐頼芸の家臣だった斎藤道三が、争いの末に土岐頼芸を追放して美濃の大名となる。 |
1556年 | 斎藤道三が息子・斎藤義龍に謀反を起こされ『長良川の戦い』で討ち死にする。
明智城が落城 光秀の叔父とされる)明智光安の守る美濃の明智城が、斎藤義龍に襲撃され落城する。
明智光秀はこのあおりを受け、浪人となったとされる。 ※土岐氏の味方に付き、斎藤道三と敵対していた説、長良川の戦いでも斎藤義龍の軍勢に入っていた説もある。
斎藤道三の死後、明智光秀は越前の朝倉義景に仕えることになり、しばらく越前で過ごすことになる。 |
1565年 | 将軍・足利義輝が三好三人衆、松永久秀らに殺害される。 |
1566年 |
足利義輝の弟・足利義昭は、色々あった後に越前へ入り、朝倉義景の加護を受ける。
明智光秀はこういった事情があった中で、足利義昭と接点を持つようになり、後に義昭に仕えることになる。 (足利義昭の家臣である細川幽斎に仕えていたとも) |
1568年 | 足利義昭の使者となり、織田信長に会う
上洛して将軍の座につきたい足利義昭だったが、朝倉義景は動かず。 織田信長を頼るべし、と明智光秀が勧め、その仲介役も務めた。 ※『上洛』は政の中心である京都へ行くこと。権威を示すに然るべき場所。
光秀、足利義昭の上洛に同行する 織田信長は敵勢力を蹴散らし畿内を掌握、無事に足利義昭が将軍就任の運びとなる。 |
1569年 | 本圀寺の変
三好三人衆が巻き返しを図り足利義昭を襲撃するも、明智光秀含む足利軍が本圀寺にて応戦し、防ぎ切った。
この頃から織田家の一員として働いている。 上洛後はそのまま京都に残り、周辺の政務にあたる。
徐々に足利義昭と織田信長、不仲になっていく
浅井氏、朝倉氏、本願寺(一向衆勢力)、延暦寺、三好氏、武田氏などが信長の敵となっていく。
光秀は織田家の一員として信長に従い行動していくことになる。 |
1570年 | 金ヶ崎の戦い
朝倉義景を攻めた織田信長だったが、同盟相手の浅井長政に裏切られて挟み撃ちの危機に遭う。 明智光秀はこの戦に従軍、撤退戦で殿を務め、見事に敵を防ぎ切った。 |
1571年 | 比叡山焼き討ち
浅井、朝倉氏に味方する比叡山延暦寺(宗教勢力)との戦。 信長の命令で老若男女問わず数千人が首を刎ねられ、ことごとくが焼き払われたとされる。 明智光秀はこの戦の主力であった。
これらの功績で近江滋賀郡5万石を与えられる。 |
1573年 | 足利幕府が滅亡
足利義昭が大々的に打倒信長を掲げて立ち上がるも敗れる。 この時、明智光秀は足利勢の城である槇島城を攻め落とすなどしている。 足利義昭は京から追放された。 |
1575年 | 越前一向一揆
明智光秀参戦、越前で暴れる一向宗門徒衆を殲滅。
長篠の戦い 織田信長・徳川家康連合軍VS武田勝頼の戦に参戦。織田軍の勝利。 (参戦してないとの説もアリ。)
丹波国の攻略を任される 丹波以外にも遠征することになるので攻略には時間を要することになる。
第一次黒井城の戦い 信長に反抗的な丹波の赤井直正の籠る黒井城を包囲、勝算はあったが味方についていた丹波の波多野秀治が裏切り攻撃してきたため敗北、撤退した。 |
1576年 | 天王寺砦の戦い
摂津で起こった織田軍VS石山本願寺との戦に参戦。 |
1577年 | 紀州征伐
紀伊の雑賀衆との戦いに参戦、雑賀衆が織田軍に降伏して戦が終結。
信貴山城の戦い 大和で起こった織田軍VS松永久秀(信長の家臣だったけど裏切って謀反)の戦に参戦、織田軍の勝利。 |
1578年 | 亀山城が完成
丹波攻略の拠点となる重要なお城。
八上城の戦い 前年裏切った丹波の波多野秀治の籠る八上城を包囲。 兵糧攻めの末、翌年落城させた。
この年、丹波で影響力を持つ赤井直正が病死。 八上城が窮地に立たされているのもあり、織田氏に降る丹波の国人達がでてくる。
また、黒井城、八上城の支城を次々に落として戦果あげていった。
有岡城の戦い |
1579年 | 第二次黒井城の戦い
かつて落とせなかった黒井城を落城させる。 これにて丹波が平定された。 |
1580年 | 丹波一国を与えられる
丹波平定の功績などにより29万石を加増され、近江滋賀郡5万石と合わせて34万石の大名となる。
さらに丹後の細川幽斎、大和の筒井順慶ら近隣の武将達が光秀の与力となっている。 光秀は畿内方面のリーダーといったポジションについたことになる。 |
1582年 | 徳川家康が安土城に来た際、接待役を務めたが不手際があり信長を激怒させた。と言われている。
本能寺の変 光秀は毛利氏と戦う羽柴秀吉を支援する為、中国地方へ援軍に向かう事になっていたが、ルートを変えて京都へ進軍。 少数で本能寺に滞在していた織田信長を襲撃し、自害に追いやった。
山崎の戦い 信長の死を知った羽柴秀吉が毛利氏と和睦し、京都へと進軍。 摂津と山城の国境辺りで戦となり、光秀が敗北してしまう。
逃亡中、明智光秀は落ち武者狩りに合い討たれてしまう。 |
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