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頭キレッキレの策略家!直江兼続はなぜ評価される?有能な理由とは?

徳川家康 ラインスタンプ

頭キレッキレの策略家!直江兼続はなぜ評価される?

実力で上杉景勝の右腕的存在にまで上り詰めた超有能な武将、直江兼続!


ここでは直江兼続ってどんなことした人?何が凄くて評価されてるの?といった疑問に答えるべく、直江兼続の凄いところを解説しております!

 

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策士、直江兼続!素晴らしい活躍に直江家を継いだ理由とは

 

1578年、上杉謙信の亡き後・・・

謙信の二人の養子の間で御館の乱という後継者争いが勃発しました。

 

1人は上杉謙信の姉の子供、景勝。

もう1人は北条家から養子にきた景虎。(北条氏政の弟)

 

すんなりと跡継ぎが決まらない理由には、上杉謙信が跡継ぎを決める前に急死してしまったのと、

 

血筋的には景勝が有利だけど、北条家という大きなバックがついてる景虎を支持する者も多かった為に家中が真っ二つに割れてしまった・・・という事情がありました。

 

 

景虎の支持率が高い!

バック強いし・・・景勝に勝機はあるのか?!


 

 

先手必勝です!

に上杉家当主にふさわしいのは景勝様だと思いしらしめてやりましょう!


 

この跡継ぎ争いに勝利する為の策をひねり出したのが、直江兼続だったのです!(と言われている。)

 

素早く謙信の居城であった春日山城に入り、戦の為の資金や武器をゲット。
上杉謙信のお葬式を景勝が取り仕切った。
先手必勝、素早く景虎の籠る御館に攻め入った
北条氏政の同盟相手である武田勝頼を懐柔させ、戦の際に景虎に協力しないように根回しした。

 

このように、直江兼続はアレコレ策を講じて上杉景勝の勝利に大きく貢献したのでした。

 

 

追い詰められた景虎は自害。

見事、景勝側が勝利したのだ。


 

そしてこの御館の乱の後、上杉家家臣の直江景綱とその跡継ぎの信綱が続けて他界してしまいました。

 

もう直江家には跡を継ぐ者がおらず、あわやお家断絶・・・という状況でしたが、

 

 

名門直江家が断然するなんてもったいない!

 

景綱の娘、お船に婿入りして直江家当主にならないかい?お前になら任せられる!


 

 

なります!


 

こんな流れで兼続は直江家当主となり、引き継ぐ形で越後の与板城をゲット!

見事、兼続は城持ち大名となったのであります。

 

もともと下級武士の子だった兼続ですが、直江家に入る事で身分にも箔がつき、よりいっそう上杉家の中で存在感を増すこととなったのです。

 

焦るな危険!冷静沈着な策略家だった直江兼続

 

1581年、上杉家家臣の新発田重家が景勝を裏切り織田信長の味方につきました。

 

この頃になると織田信長は日本で敵ナシ状態の最強大名でしたし、もともと上杉景勝に対して不満をもっていたようです。

 

そしてこの時期、

 

 

強敵、謙信がいないとなると怖いもんはないんだぜ。

上杉領、ゲットしてやる!


 

とのことで、織田信長は上杉領へ柴田勝家を中心とした4万の軍勢を送りこんできました。

 

上杉軍はこれにかなり手を焼くことになるのですが、織田信長が死去したことで織田軍が上杉領から総撤退して窮地を脱します。

 

そしてその後、

 

 

なんとか助かった!

けど裏切り者の新発田は絶対に許さん!!


 

とのことで、景勝は新発田氏を討つべく新発田城に攻め込みました。

 

が、返り討ちにあってしまいます。

 

悔しすぎた景勝は、すぐにまた新発田城へ攻め入ろうとしたのですが、

 

 

焦ってはダメです!

時間がかかってもいいから確実に勝利を狙いましょう!


 

と直江兼続が冷静に諌めました。

 

兼続の助言により、慎重に新発田氏と戦うこと約7年・・・。

 

時には

 

 

近道して敵の城へいきまきょう!


 

と言う多くの家臣たちの意見を振り払い、

 

 

ダメ!

知らない道には危険がいっぱい!遠回りでも安全で確実な道をいくべき!


 

と意見することも。

 

そしていざ城攻めとなると、兼続は奇襲作戦を用いて城へ突入し、逃げ出した敵兵をさらに外で待ち伏せしていた別隊で討ち取るなど戦術面でも才能を発揮しました。

 

かなりの期間を要しましたが、上杉軍は着々と新発田氏の城を落として見事に勝利を収めたのであります。

 

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天下人・豊臣秀吉にも認められていた直江兼続

 

織田信長が死去し、しばらくすると豊臣秀吉の時代が到来します。

 

上杉家は豊臣家と戦をすることなく、早々に臣従の意を示し上杉家の安泰をはかりました。

 

そして1590年…

豊臣秀吉は臣従を拒否し続ける関東の北条氏を討つべく、およそ22万もの大軍を動員して北条小田原攻めを行いました。

 

小田原城はかつて、戦の天才と言われた上杉謙信ですら落とせなかった難攻不落の堅城…

 

 

(10倍近い兵力差で攻めてるのにまだ城は落ちない・・・。兵の士気もこのままだと危ないな。)

 

兼続、この小田原攻めどう思う?なかなか落ちないけど。


 

小田原城攻略に苦戦する秀吉は、知略に長けた直江兼続に意見を求めました。

 

 

北条は長期の戦に耐えれるように兵糧の備えも万全でしょう。

すぐにすぐ落城しないからといって焦ることはありません。

 

しかし、小田原城を守る北条氏政は時世の読めない愚将だし、それに従う武将達も優れた者は見受けられません。

 

小田原周辺の砦も大したものではないですし、あとしばらくの間に小田原城は必ず落ちます。

必ずね。


 

 

だよね!?

みんな聞いたか!?

小田原城はもうすぐ落ちるぞっ!!


 

 

間違いない!

あと少し頑張りましょうっ!!


 

 

(秀吉様はこの小田原攻めに絶対の自信を持っているはず!兵達の不安をなくす為にあえて私に意見を求めたのだ!)


 

 

(さすが直江兼続!そう言って欲しかったの!分かってるー!)


 

秀吉は心の内を察してくれた兼続に大喜び!

褒美として兼続に太刀と自分の着衣を与えたのでした。

 

ちなみに豊臣秀吉は直江兼続のことをかなり評価しており、是非とも自分の家臣になってほしいとスカウトした事があるんだとか。

 

上杉家一筋の直江兼続はそれを断ったとのことです。

 

おまけ・直江兼続の知的なエピソードに容姿の話

 

直江兼続はとても読書好きだったんだとか。

 

朝鮮出兵の時には、戦で燃えたり破れたりボロボロになってしまった書物を収集して日本へ持ち帰っています。

 

 

中国の歴史書や医学書なんかを持ち帰ったよ。


 

そして1607年…

兼続はこの時に持ち帰った書物を書き写し、私財を投じて出版しました。

 

関ヶ原の戦い後、所領を大幅に減らされた上杉家はあまりお金に余裕がなく、本なんて出版する余裕なんかなかったそうです。

 

が、

 

 

これは貴重で素晴らしい書物!

後世に残さなきゃダメでしょう!


 

と、直江兼続は何が何でもと出版に踏み切ったのでした。

 

読書好きで学問に熱心な直江兼続だからこその偉業ですね。

兼続が現代人だったら教授とかやってそう・・・。

 

ちなみに直江兼続は『背が高く、顔も美形で喋ると爽やか、文武両道の武士』と昔の人に評価されています。

めっちゃ褒めちぎられております。笑

 

武将としてのステータスも高くて知的な長身イケメン、お給料もいっぱい貰ってるし文句無しの高スペック。

 

しかも側室持たずに妻一筋。

こんなん絶対モテますやん。

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楽しんでいただけたらイイネ!

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