島左近ってどんな人??謎多き武将をゆるりと解説!
石田三成が自分の所領の半分を与えてまで欲した武将、島左近!
ここでは島左近が何をしてきた人なのか、石田三成との出会い&ちょっぴり素敵なエピソードなんかをご紹介しているわよ~っ!!
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島左近はどこからやってきた??
島左近、知名度はそこそこかなりある武将ですが、その出自については実は謎だらけ。
父や母がどこの誰なのか不明。出身地についても大和、尾張、対馬、対馬…と諸説あり。
ですが、大和国平群郡の国人に『島』を名乗る一族がいる事から、島左近はその家系の人間であると推測されているようです。
私は最初に大和の大名・筒井順慶に仕えているから信憑性は高いぞ。
とは言っても本当に出自についてはあやふやなもので、一時は『島左近って本当は存在してなかったんじゃないの?』なんて言われる事もあったそうです。
が、今では島左近の存在を示す資料も見つかったそうで、ちゃんと存在していた模様。笑
石田三成に仕える前は何してたの??
石田三成に仕える前、島左近は大和の筒井順慶という武将に仕えておりました。
そこで島左近は、松倉右近という筒井家を代表する家老と並び『筒井の右近左近』と呼ばれていたそうです。
その働きの詳細は不明だそうですが、島左近が筒井家に仕える家臣の中でもかなりのやり手、エリートであった事がうかがえますね。
そして島左近は『石田三成の参謀役』として有名ですが、実は猛将タイプの武将でもあり、個人の強さにかなり定評があったと言われております。
筒井家時代は猛将として名を馳せていたぞ。
長いこと筒井家で活躍していた島左近ですが、筒井順慶の死後に当主となった筒井定次とは馬が合わず出奔…。
しばらくの間はフラフラと浪人生活を送っていたそうです。
筒井定次は酒に溺れるダメ主君だったの。注意してたら嫌われちゃった。
浪人生活を経て…島左近と石田三成の出会い
筒井家を出奔した後、浪人生活を送る事となった島左近ですが、この間に多くの大名家からスカウトを受けたといわれております。
そして蒲生氏郷、豊臣秀長・秀保といった面々に仕えた時期もあるそうですが、いずれも長くは続かなかった模様。
特に仕えたい人もいないし、しばらくゆっくりするかね。
しばらくの間、島左近は誰の誘いにもウンと言わずまた浪人生活を送る事になります。
が、ここで運命の出会いが訪れます。
『島左近は武勇・知略に優れた名将』と評判の武将!ワシの家臣になって欲しい!
近江・水口城主4万石に取り立てられたばかりの石田三成です。
ワシ、事務的な仕事は得意なんだけど戦に関してはサッパリで…。
君の才能でワシを支えて欲しいのだ。
悪いけど今は誰にも仕える気はないんで…。
そこを何とか!ワシの所領の半分の2万石あげちゃう!お願いっ!
半分?!2万石?!そこまでして私の事を…(´;ω;`)左近感激。
石田三成の熱烈ラブコールを受け、島左近は仕官を決意。
石田三成の主君、豊臣秀吉はこれを聞いて
主と家臣が同じお給料?!日本史上初じゃない?!
と大ウケしたといいます。
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島左近のお給料事情について。本当は2万石じゃなかった??
島左近が石田三成の家臣となった詳しい時期は不明ですが、1592年の時点では確実に石田家の一員であったとの事。
三成の家臣となってからは外交官としての役割を務めたり、三成に従って戦に参加したり…といった働きをしていたようです。
そして三成の所領4万石のうち2万石を貰っていたと言われているけど、実際に与えられていたのは1万5000石だったとも言われております。
筒井家家臣時代にそのくらい貰っていたからなんだって。
後に石田三成は近江佐和山19万4000石の大名となるのですが、島左近は三成からお給料アップの提案をされてもそれを断っていたそうです。
普通ならお給料アップは嬉しいものですが、そういった見返りを求めずに忠義を尽くす島左近の心意気はなんとも素敵ですね。
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
※島左近って超有能!佐和山城も超立派!三成ごときにはもったいねぇ!
と言われるだけあります。
おまけ・石高のお話
1年間に人1人が食べるお米の量が1石。戦国時代ではお給料はこの石高で換算していた。例えば『10万石の大名』であれば、10万人の人間を養う収入があるという事になる。
(実際は食費以外にも戦や生活にかかる費用もあるから10万人も養えない。)
4万石の大名だった三成が、一介の浪人に2万石も与えるのは破格の待遇…!
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