浅井長政と織田信長はなぜ敵に?2人の戦いの歴史をゆるりと
織田信長と同盟関係にあった浅井長政だけど、信長が約束を破ったせいで二人は敵同士になっちゃった!
それからは信長の天下統一事業を何度も阻んだ浅井長政…、
今回は浅井長政と織田信長がどんな感じで戦ってきたのか、最後はどうなったか、なんかをゆるりとご紹介!
前半記事:浅井長政とはどんな武将?凄い武将?功績や信長との馴れ初めは?
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浅井長政、織田信長と決裂!金ヶ崎の戦い
1568年…、
上洛を果たした織田信長は、将軍・足利義昭を利用して自身の権力を強めていきました。
足利義昭
せっかく将軍になれたのに、信長は自分が天下人みたいに振舞っている!
許せない!
信長の横暴に耐えられなくなった足利義昭は、各地の大名達に密書を送り、こっそりと信長討伐計画を進めていきました。
こんな包囲網が出来上がっていく。
しかし、信長にバレてしまいます。
なんか将軍が企んでるっぽい。
先手を打って脅しをかけとくか。
この前上洛する時、朝倉はワシに従わなかったよな。
どうせ将軍の味方につくんだろうし、潰そう。
足利義昭の動きを察知した信長は、手始めに越前の朝倉義景を潰すことを決意。
越前へと兵を進めました。
は?信長が朝倉を攻めると…?
約束が違うではないか!
これには浅井長政もびっくり。
信長は長政と同盟を組むにあたり、朝倉氏を攻めないことを条件に入れていたのです。
どうしたものか。
朝倉を助けたいけど織田は妻の実家…
敵に回したくない気持ちは当然あるし、凄く複雑だ…。
父・久政
長政よ、友情が大事に決まってるだろ。
朝倉は先代の頃からの付き合いだし、浅井が大名になるのを後押ししてくれた恩人だぞ?
信長を討つんだよ!朝倉を助けなきゃ!
板挟みで苦しい長政でしたが、父の強い進めにより朝倉氏の味方につくことを決めます。
これにて浅井と織田の同盟は終わり!
お市には悪いけど、私は信長を討つぞ!
浅井長政が動こうとしていたこの頃、織田信長はすでに朝倉氏の支城・金ヶ崎城を落とし、朝倉義景の本拠地である一乗谷城の攻略へと乗り出しておりました。
浅井長政は信長の背後を討つべく行動を開始します。
しかし、この動きは織田軍にバレてしまいました。
嘘だろ長政…信頼してたのに…。
挟み撃ちはヤバイ!
ワシが殿を務めるので急いでここから撤退しましょうっ!
織田軍は朝倉軍の追撃を振り切り越前から撤退…。
浅井長政は織田信長を討ち損じてしまったのでした。
ここで逃してしまったのは大分痛い…!
そしてこの『金ヶ崎の戦い』の撤退については、浅井長政の動きを知ったお市が
逃げて~!旦那が挙兵して向かってるわ!
今のお兄ちゃんはその小豆みたいに袋の鼠状態よっ!
といった事を伝えるために小豆を袋に入れて両端をしばった物を織田信長に送り、その意図を信長が理解して撤退を開始したなんて逸話があります。
が、あまり信憑性はないようです。
怒れる織田信長、近江へ
このワシが敵に追われ逃げ帰るなんて…なんたる屈辱!
浅井長政、絶対許さん!
金ヶ崎の戦いからわずか1ヶ月後、織田信長は浅井長政を討つべく3万の兵を率いて京都を出立しました。
来るとは思っていたけど早い!
でも、こっちもちゃんと対策してるからね!
迫りくる織田の軍勢に対抗するため、長政は美濃・近江の国境に二つの砦を築きました。
地形的に落とすのが難しい砦だし、織田軍もそう簡単にここを抜ける事はできないだろう。
しかし、信長は竹中半兵衛に調略させ、砦を守る樋口直房を寝返らせる事に成功。
難なく砦を抜けて浅井長政の本拠地・小谷城へと辿り着いたのであります。
で、でも小谷城は防御も固く、山そのものが要塞であるような難攻不落のお城だし!
そう簡単には落とせないぞ。
しかし、信長は小谷城を攻めず、小谷城の南東に位置する浅井の支城・横山城を包囲しました。
横山城は近江と越前の通路となる重要な場所!
あそこを落とされたら朝倉と連携が取りづらくなっちゃう!
焦った浅井長政は小谷城から出撃し、横山城方面へと兵を進めました。
馬鹿めっ!
横山城攻めはフェイクだぞ。
小谷城攻めが難しそうだから、浅井の軍勢を外へおびき出して野戦にもっていきたかっただけなのだ!
浅井長政はまんまと織田信長の作戦に引っかかってしまったのでした。
そしてこの数日後、朝倉の援軍が長政のもとへ到着。
浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍は、小谷城と横山城の中間にある姉川を挟んで対峙しました。
朝倉軍の左側にスタンバイしていた浅井軍8000は織田軍2万8000と激突…
かなりの兵力差があるも、浅井軍は織田軍の13段構えの隊列を11段目まで突き崩すほどに大奮闘しておりました。
しかし、徳川軍と戦っていた朝倉軍が大打撃を食らって退却してしまいます。
その為、優勢だった浅井軍は徳川軍からも攻め込まれることになり大崩壊。
やむなく小谷城へと退却したのでした。
浅井・朝倉連合軍は1万人に及ぶ死者がでたのだ…大敗北…。
その後、織田信長は小谷城へ攻めてくることはありませんでした。
が、そのまま横山城は信長の手に落ちてしましました。
命拾いしたものの、だんだんと追い詰められておる…。
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妻子との切ない別れ…浅井長政の最後の戦い
姉川の戦い後、信長は延暦寺の勢力を滅ぼしたり(比叡山焼き討ち)、浅井の支城を落としたり…と順調に信長包囲網を蹴散らしていきました。
そして姉川の戦いから3年後の1573年…、
織田信長は再び浅井・朝倉を滅ぼす為に近江へと兵を進めました。
浅井長政はこれまでと同様に朝倉義景と協力し、織田軍を迎えうつ予定だったのですが、
一足早く織田の侵攻を受けた朝倉義景が自害に追い込まれ、滅亡してしまいました。
そしてこの約一週間後、織田信長は浅井長政の籠る小谷城へと兵を進め、早々に攻撃を開始しました。
もはやこれまでか。
浅井の力だけではどうにもならない…。
浅井長政は朝倉から助けを得る事ができなかったうえ、小谷城の背後を守っていた家臣が織田に寝返ったり、支城が落とされたりと…と絶望的な状況にありました。
しかし、滅亡待った無しのギリギリのところで
今なら許すから降伏して出ておいで。
と信長から降伏するよう使者が送られてきました。
盟友も失い、家臣にも裏切られた。
父も追い込まれ腹を切った。
この後に及び、頭を下げてでも生き延びようなんて思いもよらないこと。
浅井長政は降伏を拒否、城を枕に討ち死にすることを覚悟します。
この時、長政の妻・お市は一緒に死なせてくれと懇願してきたと言います。
しかし、長政は絶対にそれを認めず、お市を説得して三人の娘達と共に城を脱出させ、織田信長の元へと届けさせました。
その後、お市を取り戻して安心したか、織田軍は本格的に攻撃を開始。
浅井長政は抵抗した後、潔く切腹。
29歳という若さでこの世を去りました。
大名家としての浅井家はここに滅亡したのであります。
10歳だった息子・万福丸もこっそりと脱出させられたようですが、捕らえられて処刑されてしまったとの事です。
浅井が大名として君臨したのは祖父・父・長政の三代と短い期間だし、ド派手な功績はないけど…
信長の天下取りの大きな障害となり、確かに歴史に名を残したのである!
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