斎藤道三ってどんな武将?ちょっと悪どい下剋上事情とは…?
斎藤道三は低い身分から下剋上一国の主に成り上がったTHE・戦国大名!
なにやら義理も人情もないやり方でのし上がっていった為か※戦国三大梟雄の一人にカウントされたりしているのよね。
※戦国三大悪い奴的な。
ちょっと悪い奴みたいなイメージがあるかも?
今回はそんな斎藤道三の下剋上の歩みやエピソードをゆるりとご紹介~。
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僧侶?油商人?もともと武士じゃなかったらしい斎藤道三
斎藤道三は1494年生まれ(もしくは1504年)と戦国時代初期に生まれたお方です。
道三の出自については謎が多いみたいですが、もともとは武士でなく僧侶だったそうな。
そして俗世に戻り、油商人となったって噂…。
諸説あるみたいですが、道三は油商人として各地を渡り歩き、後に美濃に移り住んで縁あって美濃の守護・土岐氏に仕える長井長弘(ながいながひろ)に仕えたとのことです。
ワシは武芸が達人の域で秀でててな、そういった所が長井氏に気に入られて取り立てられたのだ。
こんな感じで武士となった道三ですが、実は道三でなく父がこういう生い立ちであり、下剋上は父子2人の功績だった…という説もあるみたいです。
ワシと父の歴史は史料不足で謎が多いのよ~。
なお、道三は最初から『斎藤』の姓を名乗っていたのではありません。
商人時代には松波庄五郎と名を名乗っていたとされ、
武士となってからは主君・長井長弘に高く実力を評価されて先輩武将の姓を与えられたり、後に長井家を乗っ取ったりして西村勘九郎→長井新九郎など、色々名を名乗っておりました。
よく知られる『道三』は晩年、出家後の名前なんだな。
ポッと出の武士のはずなのにとっても仕事のできる斎藤道三!
武芸に秀で、有能であった斎藤道三は主君(長井氏)の主君である土岐頼芸(よりなり)にも気に入られ信頼されておりました。
よほど誠実に働いていたに違いないっ…!
ちなみに土岐氏は美濃の守護大名だよ。
この土岐頼芸は長い間、兄の土岐頼武と家督争いで対立しており、
1519年頃にあった争いでは頼武が勝利し、頼武が美濃の守護大名となっていました。
ですが、頼芸は諦めませんでした。
頼武から美濃守護の座を奪いとるべく、再び行動にでます。
そして、ここ一番の勝負を任されたのがほかでもない道三。
1527年、道三は5500の兵をもって土岐頼武の籠る城に夜襲をかけ、勝利を飾りました。
土岐頼武は越前へと追放、道三は土岐頼芸が美濃の守護となる道を切り開いたのであります。
大手柄じゃ~。
頼芸から益々の信頼を得る事になったね。
これこれ、この悪どいやり方が『下剋上!!』って感じ
土岐頼芸からの信頼を得てますますの活躍が期待される道三…!
しかし、いくら頼芸から信頼されているとはいえ、この時点ではまだ道三は直接の主君・長井長弘に従う立場にあります。
もっと高みへ!
邪魔者は消してくぞ!下剋上するのだ。
1533年…
道三は策を講じて長井長弘を謀殺し、長井家を相続しました。
『長弘が謀反を企んでいる』と頼芸にチクったのだ。
で、許可をもらって長弘を討ったの。
けど長井長弘は病死したとも言われているので、本当に道三がやらかしたのかは謎…!
なお、長井長弘には『景弘』という名の後継ぎ息子がいたのですが…
この方、気がついた時には歴史の表舞台から姿を消していたそうです。
ん?
ワシが景弘に何かよからぬ事をしたとでも?
何かやらかしたか、やらかしてないかは謎ですが長井家乗っ取り成功。
道三は主君を蹴落とし、一歩前進したのであります。
ノッてきた斎藤道三!ついに美濃守護代の座をゲット
1535年…
美濃守護の座を奪われた土岐頼武の息子・頼純が越前の朝倉氏、近江の六角氏の援護を受け反撃にでました。
土岐頼武はこの頃までに亡くなっていたみたいですが、土岐氏のお家騒動はまだまだ尾を引いていたのです。
近隣の大名達が頼純の味方についたとな?!
ワシら孤立しちゃう?!
道三含む土岐頼芸サイドは窮地に陥るのですが…
ここは近江の六角氏と和睦を結び、事なきを得ました。
そして1538年になると、美濃の守護代を務めていた斎藤利良(としなが)が病死。
土岐頼芸の後ろ盾もあり、道三はこの斎藤家の後継ぎとなってここで『斎藤姓』を名乗ることになります。
美濃守護代の座をゲットしたのだ。
超順調に出世しておる。
そしてさらに翌年、道三は斎藤氏の居城であった稲葉山城を大工事して難攻不落の山城に仕上げました。
立派な城持ち大名になった♪
ちなみにこの稲葉山城は後に織田信長のものとなり、『岐阜城』と名を変える事になるぞ。
斎藤道三、絶頂期キタ
1541年…
ノリにノッてきた道三は土岐頼芸の弟・頼満を毒殺しました。
土岐頼芸が贔屓してくれたおかげでここまでビッグになれたのに、恩を仇で返すとはまさにこのこと。
※土岐頼芸は道三のことを気に入っていたが、弟の頼満は道三のことをよく思っていなかったらしい。それを察した道三は、頼満を一度養子として迎え入れて毒殺した。…と言われている。
戦国時代ではよくあること。
まぁ、この毒殺もワシがやったって証拠はないんだけどね。
こういった事がきっかけか、ここらへんから道三と土岐頼芸との関係が悪くなり、対立していくことになります。
そして翌年の1542年…
道三は挙兵して土岐頼芸の居城・大桑城を落としました。
頼芸は織田信秀(信長の父)を頼って尾張へと逃亡…
道三はついに美濃を掌握しちゃったのであります。
見事、下剋上大成功!
一国の主にのぼりつめたのである。
ここまで暗殺疑惑やら色々あるけど、疑惑で終わってるという事は余程上手くミッションコンプリートしたということなのでしょう。
主君に
こいつ腹黒い…裏切りそう…。
といった事を相手に感じさせることなく信頼を得ていたわけだし、斎藤道三は要領の良いやり手な人物だったに違いない。
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一国の主になったはいいが、ここからが大変!
斎藤道三に美濃を追われた土岐頼芸は…
このままで終われない!
裏切り者の道三を倒して美濃を取り戻す!
とのことでお家騒動の時に対立していた土岐頼純と手を結び、
さらに越前の朝倉孝景、尾張の織田信秀の援助を受けて道三を潰しにかかりました。
が、
道三は1544年(1547年とも)に土岐・織田・朝倉連合軍が美濃に攻めてきたのを返り討ちにし大勝利を収めています。(加納口の戦い)
そしてその後、ラッキーなことに土岐頼純が病没して敵の勢いに陰りがでてきました。
土岐頼芸はそれでも美濃復帰を目指して奔走していたようだけど、もはやワシの敵ではなかった…。
そして1548年…
これまたラッキーなことに織田信秀から和睦の申し入れがあり、道三は隣国からの侵攻に怯えることがなくなりました。
(この時、織田信秀は駿河の今川義元とも争っており、道三と争うのがしんどい状況だった。)
この同盟が成立するにあたり、斎藤道三は娘・濃姫を織田信秀の息子・信長のもとへ嫁がせております。
信長と濃姫、有名な戦国カップルだね。
こんな感じで落ち着いていった道三は1552年には土岐頼芸を再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定しちゃったのでした。
ちなみにここまでくるのに、道三って主君を蹴落として国盗って…悪い奴じゃね?と世間にも認知されていたようです。
でも商業の発展に力を入れるなどし、国の経営は上手くやっていた模様…!
一国の主になれたのはいいけど、ここからが大変!
ワシの晩年は息子との争いで修羅場だよぉ~。
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