真田昌幸・幸村・信之の年表!真田親子の歴史を簡単にわかりやすく!

真田昌幸・幸村の歴史まるわかり年表!簡単にザーっと見てみよう!

徳川家康 ラインスタンプ

真田昌幸・幸村の歴史まるわかり年表!

時の権力者達を翻弄し、小勢力ながら戦乱の世をうま~く生き抜いてきた真田昌幸!


そして息子の真田幸村は大坂の陣で戦国時代を代表する英雄に!

 

ここでは戦国時代に活躍した真田親子の歴史がわかるようにザーッと簡単に年表でまとめてみたわよ~♪

 

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はじめに 真田氏はもともと、信濃の小県郡真田郷(ちいさがたさなだごう)という小さな土地の領主だった。

 

真田幸隆(昌幸の父)は武田信虎(信玄の父)に攻め入られ土地を追われ、一度上野国へ亡命していた。

 

その後、武田信玄が当主となってから信濃へ戻り、武田信玄に臣従を誓った。

1547年 真田昌幸、誕生。父・幸隆が武田信玄に臣従を誓ったのもこの時期。
1553年 真田昌幸、武田信玄の元へ人質として送られる。後に近習に抜擢される。
1561年 第四回・川中島の戦い 昌幸、参戦。
1566年 昌幸の長男・信之(のぶゆき)が誕生。
1567年 昌幸の次男・幸村(ゆきむら)が誕生。この頃、足軽大将に出世する。
1569年 三増峠(みませとうげ)の戦い 武田VS北条の戦。昌幸、参戦。
1572年 三方ヶ原の戦い 武田信玄VS徳川家康の戦。昌幸、参戦。
1573年 武田信玄が死去。
1574年 父・幸隆が死去。昌幸の兄・信綱が真田家の家督を継ぐ。
1575年

長篠の戦い 武田勝頼VS織田信長・徳川家康の戦。

昌幸の兄・信綱と昌輝が戦死。三男だった昌幸が真田家の家督を継ぎ、当主となる

1580年 昌幸 北条氏の守る上野の沼田城を攻略する。
1582年 織田信長・徳川連合軍の武田攻めにより武田氏が滅亡。

 

この後、真田は織田家に臣従し、信長の家臣・滝川一益の与力となった。前年落とした沼田城は滝川氏のものとなっている。

 

これにともない、真田幸村は滝川一益の人質になった。

 

本能寺の変 織田信長が死去。

 

天正壬午の乱 信長の死によって混乱状態となった旧武田領を巡る争いが起こる。(徳川、北条、上杉などが甲斐・信濃に侵入していった)

 

真田昌幸もこの混乱をチャンスとみて、信長に追いやられていた旧武田家家臣を味方にひきいれ勢力を拡大させた。

 

上野の滝川一益が北条氏直に攻められ土地を追われる。これをチャンスとみて、昌幸は滝川氏のものだった沼田城をかすめとった。
滝川一益の人質だった幸村は信濃にとどまる。

 

この後、昌幸は上杉景勝に臣従するも、すぐに北条氏直に臣従した。が、この3ヵ月後には徳川家康に臣従する。

 

さらにこの後、戦をしていた北条と徳川が和睦。北条は「真田が奪った沼田城を北条に返すように」と徳川に和睦の条件を提示した。

が、昌幸はそれを拒否。

 

本能寺の変が起こった年の真田家は大変だった。

1583年 真田昌幸、信濃に上田城を築城する。
1584年 真田昌幸、沼田城の事で徳川家康と揉めて決別。上杉景勝に臣従した。

 

これにともない幸村は上杉景勝の人質として海津城へ送られる。

1585年 第一次上田合戦 徳川家康VS真田昌幸・信幸(と上杉軍の援軍)の戦。徳川軍7000が上田城に攻めてきたのを真田は2000の兵で撃退した。
1586年 真田幸村、豊臣家の人質として大阪へ送られる。この時、日本で敵ナシ状態の豊臣家の直臣となった事で真田の格が上がった。
1587年 真田昌幸、豊臣秀吉の命令で徳川家康の与力となる。
1589年 秀吉の命令で沼田城を北条氏に渡す。

 

この頃、長男・真田信之が本多忠勝の娘・小松姫と結婚した。

1590年 北条小田原攻め 真田昌幸信之は松井田城・箕輪城攻めに参戦。この後、真田は秀吉から沼田城を安堵される。

 

幸村は石田三成に従い忍城攻めに参戦(と伝えられている。幸村の初陣がこの戦かもしれないとの事。)

1592年 文禄の役 一度目の朝鮮出兵。真田昌幸信之幸村は肥前の名護屋城に在陣。真田親子が朝鮮に渡る事はなかった。
1594年 真田幸村、秀吉から豊臣姓を受け賜わる。この頃、幸村は大谷吉継の娘・竹林院と結婚した。
1598年 豊臣秀吉が死去。
1600年 関ヶ原の戦い 昌幸幸村親子は石田三成に味方し、信之は徳川家康に味方した。

 

第二次上田合戦 徳川秀忠が3万8000の兵を率いて昌幸・幸村親子の守る上田城に侵攻。上田城は落城せず。信之は徳川軍の武将としてこの戦に参戦。

 

この戦で足止めを食らった秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

 

関ヶ原の戦い後、敗者となった真田昌幸幸村親子は九度山に追放された。

 

信之は戦後の論功によって信濃の沼田・上田に9万5000石を与えられた。

1611年 真田昌幸、九度山で死去。享年66。
1614年 大阪冬の陣 豊臣VS徳川の戦。真田幸村は九度山を脱出して大阪城に入り、豊臣軍として参戦。

 

信之は病床に伏せていたので戦には参戦せず、徳川軍に息子を派遣している。

1615年 大阪夏の陣 豊臣VS徳川の戦。真田幸村、再び参戦。徳川家康の本陣に突撃し、家康に死を覚悟させるほどに奮戦するも討ち死にした。

 

信之は夏の陣も参戦せず、徳川軍に息子を派遣している。

1622年 真田信之、信濃の松代へ転封され沼田と合わせて13万石を領する。
1658年 真田信之、死去。享年93。

 

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