豊臣秀次の戦国事情!天下人秀吉の後継ぎとなるまでをゆるりと解説

豊臣秀次の戦国事情!天下人秀吉の後継ぎとなるまでをゆるりと解説

徳川家康 ラインスタンプ

豊臣秀次の戦国事情!秀吉の後継ぎとなるまでをゆるりと解説

豊臣秀次,なぜ,切腹

生涯 1568年~1595年
出身 尾張
全盛期 天下人・豊臣秀吉の後を継いだ
主君 豊臣秀吉
有名な親族 豊臣秀吉(叔父)、豊臣秀長(叔父)、豊臣秀勝(弟)、豊臣秀保(弟)、池田恒興(正室の父)、駒姫(側室・最上義光の娘)
思い出の戦 小牧長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐、小田原攻めなど
豊臣秀次といえば 秀吉の甥っ子、殺生関白

 

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豊臣秀次が天下人秀吉の後継ぎとなるまでをゆるりと解説

豊臣秀次といえば言わずと知れた天下人・豊臣秀吉の甥っ子!


 

この方、叔父の秀吉がスーパー有能な人物だったせいで、百姓の子だったのに気が付いたら自分も武士になって天下人の地位についちゃった激レアさんね~!

 

今回はそんな豊臣秀次についてをゆるりとご紹介~。

 

なんだけど、秀吉が歩んだ天下統一までの道。…の横に秀次がいた。って感じの内容になってるわね。

 

親は百姓!日本一出世した凄い人物の甥っ子、豊臣秀次

 

1568年、豊臣秀次は父・弥助、母・とも(秀吉の姉)の間に生まれました

 

父親の出自についてはよくわかっていないみたいですが、名字を持たない身分の百姓だったかもしれないとのこと。

 

秀次は秀吉が

 

 

まだまだ駆け出しの武士だけど、これからバリバリ頑張って織田家で出世してやるぅ!


 

って時期に誕生しております。

 

 

叔父の秀吉も百姓出身だったのだ。

ちなみに私と叔父の年齢差は31歳ほど。


 

自分の叔父がまさかの天下人になるという凄い運命の下に生まれてしまった秀次…

 

秀吉が武将として成功していった事で秀次も武将としての人生を歩み、地位と名誉を手に入れるわけですが、ぶっちゃけ最期のほうは悲壮感溢れる切ない展開となっております。

 

 

叔父の言うがまま、なるようになってきた人生だったかなぁ。


 

秀次は秀吉の希望の子!武士社会は大変なのだ

 

1573年は…

 

 

信長包囲網なんてものを仕組まれて各地の大名達にやられちゃいそうだったけど

強敵武田信玄は死んだし、主犯の足利義昭将軍も追放した!

他の敵も順調に倒していってるしワシ絶好調!


 

という、織田信長飛躍の年でありました。

 

それにともない戦などで活躍した織田家家臣らも出世をしていくわけですが、

 

秀吉はこの年の浅井長政との戦で武功をあげ、浅井氏の旧領である近江の一部を与えられて長浜城城主となりました。

 

そして秀吉は浅井氏との戦で、浅井方の武将・宮部継潤を調略して味方につける事に成功しているのですが、この時、人質の意味を込めて秀次が宮部家に養子入りしております。

(その後、家臣として落ち着いてから養子縁組は解消されてる。)

 

 

この時、叔父には実子がいなかったからね。

致し方なく、血縁者の私が幼くして手駒となったのよ。

 

というか、今後ずっと私は叔父の手駒として動いていく事になるんだけどね。


 

武将にとって子供は沢山いるにこしたことはありません。

 

後継ぎはもちろんのこと、同盟を結ぶ際に人質に出したり、他家との信頼関係をより強固なものにするのに我が子を嫁がせたり…

 

勢力拡大を目論む戦国武将にとって、子供はお家の繁栄に必要不可欠。

 

というか、子供に限ったことじゃなく、信頼できる身内や家臣が沢山いるのに越したことはありません。

 

最終的に天下取った徳川家康はこれに関して恵まれておりましたが、

 

秀吉には子供だけでなく、武士として信頼できる身内や家臣が多くはいませんでした。

 

 

百姓出身だし…こればっかりは仕方ないんだよなぁ…。


 

 

この秀吉の頼れる血縁者少なすぎ問題のせいで私は凄まじく悲惨な最期を遂げるのであった…。


 

秀次、二度目の養子入りは三好家!

 

1575年以降、織田信長は土佐の大名・長宗我部元親に対して

 

 

長宗我部の領地を安堵するよ!

四国は切り取り次第、君のものさ。

自由に頑張れ~!


 

と認めておりました。

 

が、一方で信長は長宗我部氏の敵である、阿波の三好氏とも主従関係を結んで良好な関係を築いておりました。

 

ので、

 

 

四国は切り取り次第、長宗我部のものとして認めるとは言ったけど…

ワシと仲良しの三好くんとこの領地は荒らさないでほしいなぁ。


 

長宗我部氏が阿波を侵略することは良しとしませんでした。

 

そこで信長は元親に、三好氏と仲直りして阿波の領地を返すよう要求するのですが、

 

 

話が違うし!

嫌!


 

長宗我部はそれを拒否。

 

で、

 

 

じゃあもう知らん!

お前敵!倒しに行くからな!


 

織田信長による長宗我部の討伐が決定されました。

 

が、この後本能寺の変が起こって信長が亡くなってしまったので、この四国征伐は中止となります。

 

長宗我部元親は

 

 

ヒャーッイ!

信長がいないならこっちのもんだわー!


 

と勢いづき…

 

三好康長

 

ヤバイぞ長宗我部が調子のってきた。

信長さんがいなくなった今、他に頼れるのは……

 

秀吉さん!


 

これに対抗するべく、三好康長は秀吉に接近して主従関係を結びました。

 

前置きが長くなりましたが、この際秀次が三好家に養子入りしております。

 

 

本能寺の変の数年前から養子入りしてたって噂もあるよ~。

ちなみに、私の養父・三好康長は三好長慶の叔父にあたる人物だよ。


 

ちなみに、三好康長はしばらく秀吉の配下として働いていたみたいですが、気づいた時には歴史の表舞台から姿を消していたそうです。

 

康長の嫡男も消息不明となっていたとのこと…。

 

なので、養子ではあるけど秀次が残された三好家をまとめる立場になりました。

 

止まらない秀吉の快進撃、秀次は秀吉から期待を受けるも…

 

本能寺の変の後、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を倒すという大手柄をあげました。

 

 

この功績によってワシの地位がギューンと上がった!

残された織田家を…これからの日本を引っ張ってくのはワシじゃ!


 

といった感じで、凄まじくいい波に乗っていたわけですが…

 

そう簡単にいかないのが戦国時代。

 

 

秀吉が主導権握ってるのが気に食わん!


 

 

織田家の未来は我々が守る!


 

同じ織田家家臣の中にも秀吉を良く思わない者がおり、仲間割れを起こして戦となってしまいます。

 

秀次はもちろん秀吉側の人間なので、秀吉に従ってアンチ秀吉勢と戦ってきました。

 

 

1583年の賤ヶ岳の戦い勃発時には一軍の大将を務めたのだ。

滝川一益のいる伊勢へ攻め入り、武功をあげたぞ。


 

秀吉は賤ヶ岳の戦いで織田家の有力家臣であった柴田勝家を滅ぼし…

 

 

織田家最大の邪魔者がいなくなった。

この調子でいくとワシ、マジで天下取れるんじゃね?


 

という所まで上り詰めました。

 

 

こうしちゃおれん!

今後、立派に地位を築いていくにはしっかりと基盤を固めなくてはいけない!


 

身一つで成り上がった秀吉には、脈々と続く武士の一族といったコミュニティを持っていないし、この時点では実子もおりません。

 

そこで秀吉は血縁関係もあり、年齢的にも武将としていい感じ(この時16歳ぐらい)の秀次に羽柴姓を名乗らせ、秀吉一族の期待のエースとして重用することとしました。

 

 

いずれは叔父が天下を取るのか…?!

そして私はそんな人を支える武将になる、なんてプレッシャーなんだ。


 

そしてその後、早速これからの天下の行方を左右する戦が起こります。

 

あの徳川家康と信長の次男・織田信雄がタッグを組み

 

 

秀吉が好き勝手して俺をないがしろにしてる!

織田家を乗っ取る気だよ!

家康さん、一緒にぶっ潰そ!


 

 

もちろん協力するよ~!

織田家と徳川家はマブダチだもの!


 

と、秀吉を倒すべく立ち上がったのであります。

 

秀吉が日本トップレベルの有力大名である徳川家康を倒せば凄まじく箔がつくし、益々の権力を握ることになる…

 

負けられない戦いがここにある!

 

 

叔父がビッグになればなるほど私に対する世間の注目も大きくなる!

頑張らねば!


 

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秀次、小牧長久手の戦いではやる気満々で戦に挑むも…

 

1584年…

 

羽柴秀吉VS織田信雄・徳川家康連合軍が尾張にて激突。

 

俗にいう、小牧長久手の戦いが起こりました。

 

両者それぞれ敵を調略したり城を落としたり…と動いた後は小牧にて対峙。

 

…するのですが、

 

 

家康は野戦の天才と言われとるからね。

うかつに動いたらあかんね。


 

 

どうでてくるかな?

相手に隙ができるまでよ待つよ~。


 

両軍とても慎重、しばらく睨み合いが続くことになります。

 

で、この状況に痺れを切らしたのが秀吉チームの武将達。

 

 

いつまでじっとしてる気か!

 

敵の兵はザッと見積もって3万、こっちは約10万だぞ!

負ける気せんわ!

一気にカタをつければよかろうて!


 

 

家康の本拠地である岡崎城を攻めましょう!

家康の主力部隊はここに集中しているから、今なら落とせますぞー!


 

 

岡崎を攻められたと聞けば家康は慌ててここを離れるだろ。

そこを別隊で追撃すれば家康の首もとれる。


 

 

そんな上手くいくぅ?

相手は家康よ?


 

 

上手くいく気しかしない!

私も大賛成!


 

秀吉はこの作戦にあまり乗り気ではなかったようですが、彼らの熱意に押されて岡崎攻めを許可しました。

 

で、この岡崎攻めの総大将を務めたのが他でもない秀次であります。

 

 

総大将だしやる気満々!

立派に武功立ててやるぞ!


 

秀次はこの作戦に前向きだった模様。

 

しかし残念ながら徳川家康らにこの動きを察知され、長久手の地で逆に奇襲されて大敗北を喫するのであります。

 

 

私はかろうじて生き延びたものの、池田も森も討ち死に…。

 

ここで負けて戦はまた膠着状態になった。

結局、小牧長久手の戦いは和睦して終わらせたぞ。


 

強情秀次VSメンタル最強可児才蔵、小牧長久手での逸話が面白い

 

奇襲を受けて大敗北…という結果だけでも屈辱的だったわけですが、

 

小牧長久手の戦いで秀次は面白悲惨でなおかつ屈辱的な逸話を生み出しております。

 

それは徳川軍の奇襲を受け、秀次軍が大混乱に陥っていた時のお話…

 

秀次は家臣の可児才蔵に

 

 

味方は総崩れ、立て直しは無理ですので一旦退却しましょう。

もし背後から敵の追撃があれば終わりです。


 

このように進言されるのですが

 

 

いや!退くことは許さん!

才蔵、お前強いんだから戻って戦え!!


 

 

いや、敵は必ず軍を固めてさらに攻め込んでくるでしょう。

退くべきです。


 

 

だから戦え!

今なら巻き返せる!

私の命令がきけないのか?


 

断じて認めず。

 

 

(状況が全く理解できてないし人の忠告にも耳を貸さない。

こんなのが総大将とは…。終わってる。)


 

秀次を見限った可児才蔵は…

 

 

糞でも召しあがってくださいまし~。


 

と吐き捨て、一人で退却を開始してしまいました。

 

 

は?

クソくらえ!ってこと?

 

主君に対してなので敬語で言いました~。ってか?!

逆に超腹立つんですけどー?!


 

可児才蔵に見捨てられた秀次はしばし戦場でふんばるのですが、その後、徳川軍の猛攻撃を受けて敗走。

 

そしてかなり追い込まれていた秀次は徒歩での逃走を余儀なくされるのですが、

 

その途中、馬でぽくぽく余裕の撤退をしている可児才蔵に遭遇します。

 

 

才蔵!!

その馬私にくれ!


 

なりふり構ってる場合じゃない秀次、必死のお願い。

 

さっきは酷い事言われたけど秀次は才蔵の主君だし、この戦の大将であります。

 

死なせてはいけないお方です。

流石にこの状況、才蔵も助けてくれるはず…。

 

しかし、才蔵は

 

 

雨の日の傘にて候。

 

(雨が降ってる日は傘が必要でしょ?今の私にとって、この馬は雨の日の傘なのよ。)


 

と子洒落た捨てセリフを吐いて一人で戦場を去ったのでした。強い。

 

 

いちいち煽ってくるんなんなん!


 

その後、当然可児才蔵は秀次のもとを去るわけですが、怒りの収まらない秀次は才蔵を抹殺するために刺客を放ったそうな。

 

 

やられなかったけどね。


 

ちなみに、秀吉は長久手の戦で失態を犯した秀次に

 

 

酷い有様だった…お前は家臣を見殺しにした大たわけだ。

ワシの甥っ子っていう自覚ある?

 

今後もそんな感じなら殺すぞ。

一門の恥だわ。


 

とブチ切れしたという。

 

 

ほんと…散々でした…。

 

けど、織田信雄をいい様に丸め込んで和睦を結んだ叔父は、益々権力を握ることになったよ。

結果オーライってやつだね。


 

秀次挽回!紀州征伐、四国征伐では武功をあげ近江八幡城主に

 

1585年…

 

秀吉はかねてより反抗的だった紀伊の根来衆、雑賀衆の討伐を決行。

 

この紀州征伐では秀吉本人も出陣し、総勢10万もの兵を動員して徹底的に敵勢力を潰しにかかりました。

 

秀次はこの戦で叔父の秀長(秀吉の弟)と共に副将を務めており、

 

筒井順慶、堀秀政らと共に3万3000の兵で根来衆の籠る千石堀城を攻め、その日のうちに落城させるという手柄をあげております。

 

 

激しい戦いになるかと思いきや、たまたま我々の放った火矢が城内の火薬箱に命中して引火して爆発したのだ。

このおかげで一気に攻め込むことができたんだな。


 

 

次いで織田信長の時代より揉めていた長宗我部元親との戦、四国征伐が行われるのですが、

 

こちらでは秀長が総大将を務め、秀次が副将を務めました。

 

 

ちなみにワシは出陣してないよ~。


 

秀吉は10万を越える大軍を投入し、各方面から攻めさせました。

 

 

私は3万の軍勢を率いて阿波から攻め入ったぞ。

毛利氏の協力もあり、我々は順調に敵の城を攻略していったのだ。


 

一方、長宗我部元親が動員できたのはスーパーMAX多く見積もって4万ほど…

 

 

兵力差もあるけど…敵は武具や武器が最先端で兵のクオリティからして違う。

 

土佐以外、ほぼ敵の手に落ちてしまった…。

勝ち目ナシか。


 

追い込まれた元親は降伏し、阿波・讃岐・伊予を秀吉に譲り渡すこととなりました。

 

 

叔父の勢力が四国全土にまで及んでしまった…。

凄いぃ。


 

さらにこの年、秀吉は関白に任命されております。

 

関白とは成人した天皇を補佐する役職であり実質、公家の最高位。

 

 

名目上、ワシに逆らえる大名はいない。


 

ということであります。

自分の身内が超出世、秀次にかかるプレッシャーもハンパなかったことでしょう。

 

秀次自身は四国征伐の後、近江の八幡山城に居を構え43万石(配下の所領と合わせて)の大名となっております。

 

 

ちなみに、これからしばらくして私は豊臣の姓を与えられているよ。


 

この後の1587年、打倒島津氏を掲げて九州征伐が行われていますが、秀次は秀吉の代わりに京都で留守を務めています。

 

秀吉は島津氏を下し、無事に九州を支配下に収めました。

 

この年は京都に聚楽第(秀吉の権力の象徴ともいえる豪華な邸宅兼仕事場)が完成した年でもあり、秀吉は天下人と呼ぶにふさわしい権力者となっておりました。

 

最後の敵となる関東の北条氏を倒し、秀吉が天下統一を成し遂げるのが1590年、

 

この後、秀次は天下人・秀吉の後継者となって日本の為、豊臣家の繁栄のために活躍していく事に…

 

…なるはずだったのに、最悪の結末を迎える事になってしまうのであります。

 

 

長くなっちゃったから一旦ここで区切るぞ。

悲壮感溢れる後半へと続くのである。

 

続き:豊臣秀次は秀吉の希望!だったのになぜ最期は切腹を命じられた?


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