加藤清正の年表をわかりやすく!~ゆるりと楽しく戦国時代~

加藤清正の年表をわかりやすく!

徳川家康 ラインスタンプ

加藤清正の年表の前に…清正とは一言でいうとこんな武将!

加藤清正は豊臣秀吉の家臣で、初代熊本藩主ということで有名ね~。


そして武勇に優れたTHE・猛将!って感じの武将なんだけど、築城の名人で政治に関しても仕事ができるというバランスの良い武将なのよ~!

 

同じ秀吉の家臣の福島正則とはニコイチのマブ!

そして石田三成とは仲が悪い。

 

加藤清正の歴史や逸話を詳しく知りたい方はあとで↓こちらも覗いてみてね~!
加藤清正は熊本の英雄!七本槍に虎退治…逸話や活躍をゆるりと

 

加藤清正の年表

1562年 尾張にて誕生 (現在の愛知県)

豊臣秀吉の母と清正の母が親戚であったとされ、その縁あって後に秀吉の小姓となり武士の道を歩み始めることになる。

1582年 中国征伐に従軍 

秀吉がリーダーとなり、毛利氏の領土である中国地方へ侵攻。

 

中国征伐の最中、京都で本能寺の変があり織田信長が死去。秀吉は信長を倒した明智光秀を討つべく京都方面へ戻る。

 

山崎の戦いに従軍 

秀吉VS明智光秀、秀吉の勝利。

1583年  賤ヶ岳の戦い参戦 

秀吉VS柴田勝家。

織田家の後継者争いがこじれて起こった戦。秀吉の勝利。

 

敵将を討ち取る武功をあげ、『賤ヶ岳の七本槍』の一人となり3000石を与えられる。 

1584年 小牧長久手の戦いに従軍 

秀吉VS徳川家康・織田信雄。

信長の次男・信雄が権力を持ちすぎた秀吉を倒すため、家康と協力して挙兵。

戦は和睦を結んで戦は終結。

1585年 四国征伐に従軍 

秀吉VS長宗我部元親、秀吉に反抗的だった四国の長宗我部元親を成敗する為の戦。

1587年 九州征伐に従軍 

秀吉VS島津義久、秀吉に反抗的だった九州の島津家久を成敗する為の戦。

1588年 肥後半国19万5000石の大名となる

肥後一国を領していた佐々成政が失脚、その後に加藤清正が北半分に入り、南半分に小西行長が入った。

隈本城に入城。(後に熊本城と改名される)

1592年 文禄の役参戦 1度目の朝鮮出兵。 

凄まじい勢いで敵地を進み、朝鮮の王子を捕えるなど活躍を見せるが、和睦して戦を終わらせたい派の石田三成・小西行長らと戦略の事などで揉め、秀吉日本へ帰国させられる。

 

文禄の役は和睦交渉で一時停戦されるが、交渉決裂となり再度出兵が決まる。

1597年 慶長の役参戦 2度目の朝鮮出兵。

蔚山城の戦いでは敵の大軍に包囲され、兵糧不足で苦しい戦いを強いられたが援軍が来たおかげで勝利している。

1598年 豊臣秀吉が病死 

これにより朝鮮出兵は中途半端&戦果無しの状態で中断される。日本へ帰国。

 

秀吉の死後、徳川家康の養女を妻にもらっている。

 

そして秀吉という統率者がいなくなった豊臣家は、家臣らが仲間割れを起こして崩壊へ向かうことになる。

1599年 石田三成を襲撃する 

清正は仲間と一緒に嫌いな石田三成殺害を企てるが、徳川家康に説得され未遂に終わった。

1600年 関ヶ原の戦い 

徳川家康率いる東軍VS石田三成率いる西軍。

清正は東軍に所属するが、関ヶ原の戦い自体には参加せず、九州の西軍勢力の抑えとして九州に残っていた。

 

関ヶ原の戦いは東軍の勝利。

戦後は加増され、肥後一国52万石の大名となる。

1606年 熊本城の完成のお祝い 名城と名高い熊本城が完成。
1611年 加藤清正、50歳で死去 

ハッキリとした死因はわかっておらず。

1615年 坂夏の陣 豊臣VS徳川。徳川の勝利。

 秀吉の跡継ぎ・豊臣秀頼は自害、清正が生涯一筋で仕えた豊臣家が滅びてしまった。

 

※年表にでてくる戦の対戦相手はかなりざっくり書いてます。

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楽しんでいただけたらイイネ!

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