最上義光の謀略の歴史、娘の悲しい戦国事情などゆるりと解説
義光と書いて『よしあき』!
おそらく、名前の読み方を間違われる戦国武将ベスト3に入る最上義光!
そんな事はさておき、最上義光はあの伊達政宗の叔父!
今回はなかなかに悪どい手法で成り上がり、自身も戦国時代の洗礼を受けまくり怒涛の人生を送った最上義光をゆるりとご紹介っ。
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伊達氏と切っても切れない関係だった最上氏
最上氏は足利氏の流れを組む斯波(しば)氏の分家…という事で、最上義光はお家柄良し!な名門出身の方です。
出羽(山形県)の最上川東部に勢力を誇っていた最上氏ですが、隣接する伊達氏とは犬猿の仲で、最上義光が産まれる前から争いの歴史が続いておりました。
そして最上義光が世にでてきた頃は、伊達氏が最上氏を圧迫している状態にあり、この時の最上氏は、東村山群という土地を支配する程度だったとの事。
伊達だけじゃなく、最上一族の奴らが戦国時代になって最上に敵対したり…と大変な時期だったのよ。
そして1564年…
最上義光が18歳の時、伊達輝宗(政宗 の父)に義光の妹・義姫(よしひめ)が嫁ぎます。
伊達と最上の関係改善を図る為の政略結婚ですが、その後も両者はたびたび争う事になります。
ちなみに政宗はワシの21歳年下!
最上義光、当主に!でも父親に煙たがられていたらしい
1571年、最上義光は25歳で家督を譲られ、最上家当主となりました。
しかしその後、義光は『伊達家と仲良くしていきたい派』の父や一族の者と揉め、激しく対立していく事になります。
ワシは伊達家に圧力をかけられている現状が嫌だったのだ。
アンチ伊達家な態度をとる最上義光…、
伊達輝宗
(義光は伊達に反抗的だな。今後の為に潰しときたい。)
義守さんが 息子と喧嘩して困ってるらしいので助けにいってきます!
伊達輝宗は最上一族が揉めているのをいい事に、義光の父を助けるという名目で最上領へ攻めてきました。
近隣の最上一族の武将達も伊達輝宗に加担、
ワシ、大ピンチ!
だったのですが、義光はこれらを上手く退け、父や伊達輝宗と和睦するようもっていきました。
これによって義光は伊達氏から完全に独立できたし、最上家の当主として村山郡の支配を固める事ができたのであります。
けど、その後も伊達とは争う事になるんだよね。
最上義光、本領発揮!策略と謀殺で敵をねじ伏せまくる!
伊達氏から独立した後、最上義光はさらなる勢力拡大に向けて最上郡、庄内の制圧にとりかかりました。
そこで策略と謀略を得意とする義光はちょっと卑怯で悪どいやり方で近隣の武将達をねじ伏せていくのであります…!
最上義光のちょっと悪どい戦歴
●1580年…以前、伊達と組んで最上領に攻めてきた上山満兼(一族の者)を倒す。
上山満兼の家臣・里見民部にワシの味方してくれたら上山領、君にあげる。と誘惑して上山満兼を殺害させた。
●1581年…鮭延城と頼れる家臣をゲット。
出羽の国人・小野寺景道の家臣・鮭延秀綱(さけのべひでつな)の守る鮭延城を攻めた際、鮭延秀綱を調略して最上家に引き入れた。
義光は鮭延秀綱に所領をそのまま安堵したので、鮭延秀綱は最上家に誠実に仕える事になる。
●1583年…庄 内の領主・武藤義氏を倒す。
武藤義氏の家臣とコンタクトを取り、謀反を起こさせた。追い込まれた武藤義氏は自害。
●1584年…いまいち言うことを聞いてくれない出羽の国人・白鳥長久を
病気になっちゃった。お見舞いにきて?
と誘い出して斬り捨てた。
…最上義光はこんな感じで勢力を拡大させ、出羽南部を支配下に置きました。
敵の家臣を取り込み、これを利用して敵を滅するというやり方はなかなかに卑怯でネチっこい…!
卑怯というか、リスクを減らして確実に勝てる方法を模索してるだけさっ。
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甥っ子の伊達政宗と上杉景勝に手を焼いた1588年
最上義光が出羽でブイブイいわせていた頃、奥州の伊達政宗もまた、順調に勢力を拡大させ勢いを増しておりました。
そして1588年、調子ノッてきた伊達政宗は奥州の国人・大崎義隆を攻めにかかります。
その時、最上義光は…
大崎さんはワシの親戚、これは捨て置けん!
政宗は妹の息子だけど、関係ないね。
との事で、伊達政宗と戦うべく奥州へと兵を進めました。
両者は国境で対峙。
しかし、そこに待ったをかけたのが義光の妹・義姫でした。
義姫は両軍の間に輿で割って入り、
アンタらが戦やめて帰るまで、ここをどかないからね。
と、その場に居座り続けました。
その期間、なんと約80日。
仲直りするか…。
うん…。
義姫の圧力により2人は和睦し、戦はドロー となったのでした。
これ以降、ワシは政宗と争う事はなかったのである。
そしてこれと同時期、
最上、伊達との戦で大変みたいね。
今なら最上領が隙だらけなんじゃない?
との事で、越後の大名・上杉景勝の軍勢が庄内へと侵攻、最上義光は対処しきれず庄内を奪われてしまいました。
義光大ショック。
豊臣秀吉の天下がくる!義光は秀吉に臣従することに
上杉に奪われた庄内を取り返したい…。
そう思った最上義光は、当時天下人一歩手前だった豊臣秀吉に臣従する事で、上杉景勝に対抗しようと思いつきます。
上杉景勝は『惣無事令』を無視して庄内を奪ったわけだし。
秀吉にコレを訴えて、庄内を返してもらおう!
※惣無事令…豊臣秀吉は『大名たちは私利私欲で戦するの禁止!』というお触れを出していた。
そして、以前から交流のあった徳川家康を通じ、豊臣秀吉に交渉にあたるのですが…
残念。上杉家はすでに豊臣家とズブズブなんだぜ。
庄内は上杉の領地のままでいいってよ。
チクショウ。
義光は庄内を取り戻すことができませんでした。
この後は時代の流れに逆らわず、豊臣政権の一員として安定した地位を築いていく事になります。
出羽での快進撃はひとまず終了…。
1590年の北条小田原攻めにも参加。
ちょっぴり小田原へ向かうのが遅かったので秀吉から怒られたらしいです。
しかし、出羽に20万石を安堵されたぞ。
最上義光と豊臣政権との間に確執が生まれた大事件
豊臣秀吉に臣従後、最上義光は次男・義親を秀吉の息子・秀頼に出仕させ、三男・家親を豊臣政権の重鎮・徳川家康に出仕させておりました。
そして娘の駒姫(こまひめ)を豊臣秀吉の甥・秀次の側室に差し出すことに。
秀次は女にだらしないし沢山側室がいる…
そんなとこに嫁入りしても娘は幸せになれないよぅ…
とは言っても、豊臣秀次は秀吉の後継者、超絶権力者です。
最上義光は娘はまだ未熟者だと言う理由で断っていたのですが、秀次がどうしてもと駒姫を所望したので逆らえず、泣く泣く豊臣家へ嫁に出す事になりました。
そして駒姫は秀次のいる京都へ入るのですが、京都に入ってすぐに秀次事件に巻き込まれてしまいます。
秀次事件をざっくり
豊臣秀次が秀吉や実子・秀頼に対して謀反を企んでいるとの疑いをかけられ、切腹させられた。
秀吉は秀次の血筋や遺恨を完全に消す為、一族や妻子をことごとく処刑するよう命じた。
側室といっても娘は輿入れして一ヶ月だぞ?!
処刑されるのはあまりにも理不尽!
最上義光は駒姫の処遇について豊臣家に訴えたのですが、義光本人も豊臣秀次と交流があり、最上も謀反に加担するつもりだったのでは?と疑われていたらしく、まともに取り合ってもらえませんでした。
駒姫は問答無用で処刑されてしまったのです。しかも15歳という若さで。
最上義光が豊臣家を恨んだのは言うまでもなく、これから5年後に起こった『関ヶ原の戦い』では徳川家康の味方についております。
当然だろ。
秀次事件はワシだけでなく、多くの大名が『やりすぎだろ』と冷めていったぞ。
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最上義光、関ヶ原の戦いでは直江兼続に大苦戦!
最上義光は関ヶ原の戦いの時…
徳川家康に攻め込まれるれるところだったけど、石田三成が挙兵したおかげで家康が引き返してくれた!
余裕できたから出羽の最上、攻めるか!
兼続にお任せあれ!
サクッと最上領ゲットしてきます!
西軍武将の直江兼続が3万もの大軍を引き連れ、義光の本拠地・山形城を狙って攻めてきたので大ピンチに陥っていました。
次々と落とされていく最上の支城、上杉軍はあっという間に山形城の手前、長谷堂城に到達します。
長谷堂城が落ちたら山形城まであっちゅう間や!
なんとしてでも食い止めねば!
長谷堂城は劣勢ながらも気合いで持ちこたえる、そこに最上義光は9000の兵を率いて長谷堂城の救援に向かいました。
さらに伊達政宗にも援軍を依頼、3000のヘルプを得ます。
一時は大苦戦していた長谷堂城での戦いですが、
東軍の勝利で関ヶ原の戦いが終わった?!
急いでここを離れなきゃヤバいっ!
東軍勝利の一報により、一気に最上勢が優勢へ。
そこで最上義光は退却していく上杉軍を追撃するのですが、直江兼続が潜ませていた鉄砲隊の攻撃を頭に食らったそうです。
運が悪かったら死んでた(´;∀;)兜、凹んでヒビ入っちゃってたからね。
さておき、上杉軍が会津に撤退した後、義光は上杉領となっていた庄内に侵入してちゃっかり庄内を奪還したのでした。
そして関ヶ原の戦いの後、徳川家康から正式に庄内を最上領と認めてもらい、なんやかんや加増されて最上義光は57万石の大名に大出世したのであります。
最上の全盛期!!
最上義光の晩年、最後、その後の最上家が不穏すぎ
関ヶ原の戦いから14年後、最上義光は病の悪化により山形城で死去。享年69でした。
義光の晩年、長男の義康が暗殺された為に最上家は次男・家親が継いだとのことです。
(長男の暗殺事件の全容は謎、徳川家康が義光の次男 ・家親を気に入って、彼を最上家当主にしたいと考えていただとか、最上家家臣の陰謀だったとか色々噂があるらしいです。)
しかし家督を継いだ次男・家親は、1617年に急死。
家親の子・義俊が後を継ぐも、若き当主では家臣団の統率も上手くとれず、さらには後継者争いも勃発するしで最上家はグダグダになってしまいました。
この騒動を見た幕府は
ひどい有様。こんな状態じゃ領地を治めていくことなんかできないでしょ。
最上は不届きものだとして1622年に1万石(近江へ)に改易したのでした。
そしてさらに、義俊の死後は5000石にまで減らされてしまったとの事。
まさかワシの築いた57万石がこんなに早く消えてしまうとはね…。
最上義光は悪いやつだと言われがち?
策略、謀殺で一族の人間を次々と討伐し、自らの勢力を拡大させた最上義光…、
その陰湿なやり方、薄情さで昔の人から『奸悪(かんあく)』と、どストレートに悪人との評価をされているみたいです。
まぁ、戦国時代では割とよくある事だけどね。
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