豊臣秀吉の正室に側室、女性関係のエピソード!
豊臣秀吉はなかなかに女好きであったと言われております。
正室の他、側室もわかっているだけで11人はいたと言われております。
秀吉は自分が農民という低い身分の出身であるという事にコンプレックスを抱いていたせいか、名門の出の女性を積極的に側室にしていました。
有名どころだと、
織田信長の妹・お市の娘の淀殿(茶々姫)
織田信長の娘・三の丸殿
織田信長の弟・信包の娘の姫路殿
加賀の大名・前田利家の娘の麻阿姫
鎌倉時代から続く名門・蒲生家の三条殿
近江守護であった名門・京極家の松の丸殿
・・・などがおります。何気に織田家に関係している女性が多いですね!
↓そして女好きの秀吉にはこんな逸話が残されております。
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・・・戦国時代、衆道(男同士の恋愛)は武士のたしなみとも言われていたぐらい当たり前の事だったのですが、
秀吉はそっちには全く興味がなかったそうです。そんな秀吉を見て家臣達は、
農民出身だからそういった武家の当たり前の感覚がないんじゃね?
女にしか興味がないなんてヤバいよね。俺たちで目覚めさせてあげようぜっ!
と心配し、誰もが認める美少年を秀吉にあてがいました。
これだけの美少年、女性しか受けつけない秀吉様も、さすがに食いつくはず!
と自信満々の家臣達でしたが、
君、めちゃくちゃ綺麗な顔してるね!姉や妹はいないの?紹介してよ。君の兄妹なら絶対に美女だよね///
と秀吉は別のところに食いついてきたそうです。
ワシ男には興味ないんだ。ゴメンね。
で終わらずにわざわざ
可愛い子紹介してよ
って言っちゃうところに女好きの片鱗を見る事ができますね。笑
豊臣秀吉の正室・ねねと豊臣家の関係は??
豊臣秀吉の正室は、『ねね』という名の女性です。『寧々』、『ねい』、『おね』などの名称もあります。
そして『北政所(きたのまんどころ)』、『高台院(こうだいいん)』との表記も一般的です。呼び方多いですね。笑
二人は、秀吉が織田信長に仕えるようになってから約7年後、秀吉が25歳の時に結婚します。
ねねは織田信長の家臣・杉原定利という武将の娘でした。策略結婚が当たり前の武将達には珍しく、2人は恋愛結婚だったのであります。
秀吉には正室、側室と妻が沢山いたにもかかわらず、子供が生まれたのは側室の淀殿のみでした。
子供のいなかったねねは幼い頃から秀吉の小姓として側にいた加藤清正や福島正則のことを自分の子供のように可愛がっていたといいます。
秀吉とねね、2人はとっても仲が良かったそうですが、
ウチの旦那は浮気ばっかりする!!むかつくーっ!!
とねねが織田信長に愚痴っていたというのは有名な話であります。
そしてそんなねねに
お前ほどのいい女はあの禿げネズミにはもったいねぇ!俺がよう言うといたる!
まぁでも、ムカつくのもわかるけど、ねねは武士の嫁だからほどよく秀吉のこともヨイショしてあげてね。
と信長が書状を送ってナイスフォローしたのも有名なお話しであります。
そんなねねは、秀吉の死後に、石田三成派か徳川家康派かで豊臣家家臣達が揉めている時も割と落ち着いた対応を見せており、
秀頼の母・淀殿が
徳川家康は豊臣家の敵じゃっ!!
と敵意剥き出しであったのとは逆に、中立的な立場をとっておりました。
豊臣家跡継ぎの秀頼がいる淀殿と立場が違うのもありますが、
なにがなんでも徳川家康の陰謀から豊臣家を守る!
というふうな行動はとっておりません。
その為、徳川家康との関係も良好で、豊臣家滅亡後も手厚い処遇を受け、平和な生活を送って天寿を全うしております。
『天下の豊臣』というプライドにこだわらず、変わりゆく時代を一歩下がって眺めていたということですね。冷静で賢い女性であります・・・。
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秀吉の側室・淀殿のプライドに秀頼誕生の秘密とは?
秀吉の子供を産んだ側室・淀殿・・・。
秀吉の子といえば、豊臣家を継いだ秀頼が有名ですが、実は淀殿は二人子供を産んでいます。(長男の鶴松は3歳で亡くなった。)
秀吉には10人以上妻がいるのに淀殿しか子供を産んでいないというのは、ちょっと不思議な話ですよね。
豊臣秀吉は、子供を作れない体質であったのでは?と言われております。
そうなると、淀殿が産んだ子供ってホントは秀吉の子供じゃないのでは?という疑問が浮かんできますよね。
これについては秀吉の家臣達も、
なんで淀殿しか子供産んでないんだろう。
ともやもやと疑惑を感じていたかもしれませんね。
豊臣秀頼のホントの父親は誰なの?
秀頼の父親は誰っ!?と淀殿のゲス不倫疑惑が浮上・・・!
この疑問を議論をした時に名前が挙がる武将がいるのでご紹介します!
疑惑の相手その①大野治長(おおのはるなが)
大野治長は、豊臣秀頼の父親最有力候補と言われております。
昔々、大野治長の母親は、淀殿の乳母を務めていたそうです。つまり、大野と淀殿は同じ乳で育った乳兄弟であります。
その上、二人は同い年で幼い頃からとても仲良しであったとか・・・。幼馴染みってやつですね。
実は二人の間に恋心なんかがあって、戦国の世故に結ばれず・・・。禁断の恋の後に秀頼が産まれた、なんていうドロドロした恋愛事情があったりして・・・。
ちなみにこの大野治長、豊臣VS徳川の最終決戦である大阪夏の陣でも淀殿達の味方につき、豊臣家が終わりを迎えた時には淀殿と秀頼と共に自害しています。
本当に秀頼の父親が大野治長だとしたら、家族で心中したという事になりますよね。切ない・・・。
疑惑の相手その②石田三成説
豊臣秀吉の忠臣、石田三成が淀殿と子供をこさえたという説もあります。
秀吉に跡継ぎのいない現状を危険とみて子供をこさえた、とどこかで見たことがあるのですが、さしたる根拠もないと噂話と思われます。
そもそも天下人の妻に手を出したのがもしバレてしまったら大変な事であります・・・。
ワシのような賢くてマジメな男がそんなリスクの高い事をするかね??
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疑惑その③そもそもホントに秀吉が父親説!
ここまで淀殿しか秀吉の子供を産んでいないと書きましたが・・・、
実は、若かりし頃の秀吉には南殿という側室がいて、この側室が秀吉との子供を二人産んでいるという噂もあるのです。
しかしながら、この南殿という方についても謎が多いらしく、さらにその二人の子供も幼い頃に亡くなったという話らしいですが、確かな事は不明らしいです。
謎だらけですが、多くの妻がいるにもかかわらず淀殿にしか子供ができなかったのは事実・・・。秀頼の父親の真相は闇の中であります・・・。
淀殿のプライド高い性格のせい?なぜ豊臣は滅んだ??
淀殿は浅井長政とお市(信長の妹)の間に産まれた、良家の娘さんであります。
浅井長政は秀吉が戦で滅ぼした相手です。淀殿にとって秀吉は父親を死に追いやった憎い相手なんですよね。
そういった事情もあり、秀吉の事を心から愛す事はなかったんじゃないかなぁ~と個人的に思います。
そして淀殿は、信長の姪っ子というブランドもあり、さらには秀吉の妻達の中で唯一子供を産んでいる立場から、豊臣家ではかなりの地位を持つ女性でありました。
しかし、この豊臣家の天下も長くは続きませんでした。
秀吉の死後、徳川家康が天下をかっさらっていったからです。
多くの大名たちが豊臣家から離れていったし、豊臣家は天下人から摂河泉に65万石を領する一大名へと転落しました。
こうなってからも淀殿は、徳川の天下を決して認めず、依然として豊臣家がトップであり続ける事を望んでいました。
1615年の大阪夏の陣で豊臣家は完全に滅亡するのですが、こうなってしまったのも淀殿が世の流れを無視して意地を張り続けたからだと言います。
徳川家康は、もともとは豊臣家を完全に滅亡させるつもりはなく、素直に臣従してくれればそれで良かったのです。
淀殿がそれを頑なに拒否し続けた結果、家康との関係も悪くなる一方でついには戦となってしまったのです。
確かに、かつて天下を取った人間が格下だった相手に頭を下げるのはかなり屈辱的なことではあります・・・。
初めから潔く堪忍していれば豊臣家は徳川家の家臣として存続していたかもしれないのに・・・。
でも家康の事だからいずれは何かしらいちゃもんつけて豊臣家を潰しそう・・・。
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