柴田勝家と羽柴秀吉の賤ヶ岳の戦い!
信長存命中は織田家家臣団のトップにいた勝家だけど、信長の死後はチョイと運が無く?
秀吉と差がついてしまい、身を滅ぼす事になってしまった!
なぜこうなってしまったのか?
ここでは信長の死後から賤ヶ岳の戦いで滅びるまで、柴田勝家の戦国事情をゆるりと解説!
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信長存命中の柴田勝家と羽柴秀吉の立ち位置は?
羽柴秀吉の『羽柴』は、まだ織田家家臣団の中で頭角を現す前、『木下』姓を名乗っていた秀吉が
ワシの尊敬する先輩、丹羽長秀様の『羽』と柴田勝家様の『柴』の文字を貰って羽柴と名乗ります!
という理由で名乗ったものと言われております。
年齢も勝家が15歳年上。
そして織田家に仕えてきた年数、立場、武将としてのキャリア、全てにおいて勝家の方が上だったわけです。
秀吉より上っていうか、ワシは織田家筆頭家老!
家臣団のトップだったしっ!!
それが信長の死後、農民出身の羽柴秀吉がグイグイ柴田勝家を追い抜いていくわけですから、勝家は心底面白くないだろうし、焦り、不安、屈辱、色んな感情があった事でしょう。
最終的には賤ヶ岳の戦いで武力衝突する二人ですが、実は信長存命中から2人はあまり仲が良くなかったみたいです。
※1577年に柴田勝家を大将とした織田軍が、上杉謙信に攻められていた七尾城の救援に向かう。
この時、羽柴秀吉は柴田勝家に従う立場にあったにもかかわらず、作戦の事で揉めて勝手に戦線離脱した。…という事件があった。
織田信長の死後、なぜ勝家は秀吉と差がついてしまった?
信長の死後、羽柴秀吉は誰よりも早く、誰よりも積極的に行動を起こして明智光秀を討ち取る事ができました。
本能寺の変が起こった時、
羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と戦
柴田勝家は北陸地方で上杉氏と戦
と、置かれている状況や京都までの距離は大差なかったのですが、秀吉だけがたまたま戦中に明智光秀の使者を捕え、謀反の一件を知る事ができたからすぐ行動に移せたのであります。
(本能寺の変・秀吉黒幕説はおいといて)
こればっかりは秀吉が幸運に恵まれていたという事なので、勝家が後れを取ってしまったのは仕方がない事なのですが、
信長様の仇を討ったのはワシ!!
という、この手柄は凄まじいご威光となります。
柴田勝家からするとこれはもう大事件、織田家No1家臣のポジションを奪われかねないヤバイ事態なのです。
あ、どうも。
凄い手柄をあげた織田家の英雄です。どやっ
(ぐぬぬ。何も言えねぇ。)
さらにこの後、勝家は織田家の跡継ぎを決める『清須会議』でも秀吉に負けることになります。
破滅へのカウントダウンが始まるのであります。
柴田勝家の何も言えねぇ清須会議
※柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人で跡継ぎを決める会議をした。
織田家当主だった信忠様の息子・三法師様を当主にするのが当たり前の流れでしょ!
(秀吉め、三法師様に変わって織田家の政権を仕切るつもりだな?!)
三法師様は三歳だからまだ早いじゃろがぃ!
年齢や聡明さを考慮すると信孝様がふさわしい!
大人になるまで皆で支えていけばいいじゃん!
By信長様の仇を討つという凄い手柄をあげた織田家の英雄。
凄い手柄をあげた織田家の英雄がいうなら仕方ない。
ね、勝家殿?
ぐぬぬ。
モメモメしていた織田家家臣たちでしたが、最終的には丹羽長秀も池田恒興も秀吉の肩を持ち、柴田勝家も両者に説得されて三法師が織田家の当主となる事で決着がつきました。
そしてこの後、柴田勝家(と丹羽、池田)は正式に跡継ぎと決まった三法師と改めて対面するのですが、不本意ながら
三法師様とおもちゃで遊んでたら懐かれちゃった。
とりあえず三法師様に挨拶してあげて?
と三法師を抱いて現れた秀吉に平伏させられたのでした。
秀吉に頭をさげたんじゃない、三法師様に頭を下げたんだい(´;ω;`)
とはいっても凄い屈辱、秀吉が主導権を握っている状況は否めません。
さすが、後に
鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス
で天下を取るだけあって、秀吉はそこらの武将の何倍も頭のキレるやり手武将。
こういう事を思いついて実行できちゃうところが秀吉の凄いところね~!
そしてこの清須会議の後、柴田勝家は未亡人となっていた信長の妹・お市と結婚しています。
一説によると、跡継ぎ問題に不満を持つ勝家のご機嫌を取る為に、秀吉がお市と勝家を娶せたとの事です。
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柴田勝家のグッダグダの賤ヶ岳の戦い!
清須会議の後、以前に増して険悪となった柴田勝家と羽柴秀吉・・・。
両者それぞれ、他国の大名や武将を味方につけるべく行動し、必死で勢力を拡大させていきます。
清須会議メンバーの丹羽と池田はワシの味方♪
越後の上杉も味方につけた!
ワシには織田信考、滝川一益らがついている!
部下には前田利家や佐々成政もいるし!
柴田勝家は始めは味方も多く、十分に秀吉に対抗できる力を持っておりました。
しかし、
越前の冬は雪で大変、出陣は難儀…。
冬のピークが過ぎたら出陣するかね。
なんて勝家が自領にひきこもっている間に、秀吉は近江・伊勢にある勝家派の武将達(織田信孝や滝川一益)を撃破&動きを封じたりと、有利な状況を作っておりました。
ヤバ!ひきこもってる場合じゃないっ!
雪もピークすぎたし出陣じゃ!
こうなってやっと勝家は自領を出立、近江にて羽柴秀吉VS柴田勝家の『賤ヶ岳の戦い』が勃発するのであります。
この賤ヶ岳の戦いは、信長の三男・信孝は勝家の味方、次男・信雄は秀吉の味方についており、織田家の命運を分ける戦でもありました。
この戦で次の天下が誰のものになるか決まる…
絶対に負けられない戦なのだ!
賤ヶ岳の戦いで動員された兵力は柴田軍およそ3万、羽柴軍およそ5万と結構な兵力差がありました。
その上、いざ戦が始まると部下の佐久間盛政が勝家の命令を無視したり、布陣していた前田利家が突然勝家を見捨てて戦線離脱したりとヒドイものでした。
これによって柴田軍全体の士気は大いに低下、残された柴田軍で奮戦するも総崩れとなり、勝家は敗走を余儀なくされたのでした。
賤ヶ岳の戦いで敗北、柴田勝家の最後が切ない。
賤ヶ岳の戦いで敗走した柴田勝家は、自領の越前・北ノ庄城に帰還し再起を計ります。
がしかし、すぐに北ノ庄城は羽柴軍に包囲されてしまいました。
しかもその羽柴軍の先鋒隊は、賤ヶ岳で勝家を裏切った前田利家という…。
先の戦で我が軍勢はボロボロ、敵と戦う力は残っておらん。
もはや打つ手無し。
覚悟を決めた勝家は、織田信長から拝領した茶器を広間に飾り立て、家臣達と最後の酒宴を開いて歌や舞にと心ゆくまで楽しみました。
その後、秀吉の軍勢が攻め込んでくると、勝家は天守閣に火を放ち妻のお市と共に自刃。
勝家の死を見届けた家臣達もことごとく自刃、差し違えるなどし、勝家と最後を共にしたのでした。
城は焼け落ち、柴田家はここに滅亡。
柴田勝家の切腹は腹を十字に掻っ切るという、苦痛度MAXの壮絶な切腹であったといいます。
お市の3人の娘は、『大事にしてやってくれ』と遺言を添えて秀吉の元へ送ったぞ。
その中の一人、茶々はワシの側室になったよ。
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統治Goodで人柄良し!な柴田勝家
秀吉に比べると行動力に欠けていたり戦略面に弱かったり、戦では部下に命令無視されたり裏切られたり…
と、指導者としてはチョイと頼りない印象のある柴田勝家ですが、国の統治能力においてはとても優れていたとの事です。
織田信長に与えられた越前は、もともとは信長の敵であった朝倉氏のもので本願寺勢力の拠点でもあったという、統治の難しい土地だったそう。
ですが、勝家はそこで交通の便を良くしたり、農器具の製造に力を入れて生産力をアップさせるなどの成果を上げ、以前より国を豊かにしたのでした。
ワシが越前に来てから治安も良くなった!
領主としては大分有能じゃろて!
そして柴田勝家はその人柄にも定評アリ。
家臣達の面倒見良く、とても信頼され慕われていたとの事です。
賤ヶ岳で敗走した後、勝家は自分を見捨てて戦線離脱した前田利家の居城に立ち寄り
今まで私のもとでよく頑張ってくれたね。
感謝しているぞ。
なんて温かい言葉をかけたほど。
一つも恨み言を言わなかったという…。
ワシはキレ者ではないけど、心優しい器量のでかい人物だったのだ。
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