小早川隆景は毛利家一筋!秀吉時代の活躍や逸話をゆるりと
小早川隆景の活躍もあり、毛利元就が中国地方で覇権握っちゃったのよね~!
でもまだまだ戦国時代は終わっちゃいない、むしろこっからが本番~っ!
元就の死後は信長や秀吉といった強敵を相手にする事になって大変!
だけども隆景がいるから大丈夫!
隆景はこの後も毛利家ファーストでバリバリ働きまっせ~!
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反織田信長チームに仲間入り!毛利・小早川水軍が本願寺を救う
1571年、小早川隆景の父・毛利元就が死去。
これと同時期、織田信長には将軍・足利義昭、本願寺、武田信玄、浅井長政、朝倉義景…などなど、多くの敵がおりました。
もともと織田氏と敵対関係になかった毛利氏ですが、1576年に
足利義昭
毛利さんとこの領地、来ちゃった(^u^)
信長ムカつかん?一緒に倒そ?
京から追放されていた将軍・足利義昭に頼られてアンチ信長派の仲間入りを果たしました。
そして同年、信長と戦っている摂津の本願寺から兵糧や武器の援助を求められ、これに応じて毛利・小早川・村上の水軍が大阪湾へと出撃。
毛利水軍チームは摂津の木津川口にて織田水軍を撃破し、無事に武器兵糧を届ける事に成功しました。
しかしその2年後、本願寺を支援するために再び水軍を率いて摂津へと向かうのですが、二度目はパワーアップした織田水軍にボロ負けてしまいます。
木津川口の戦いって言われている戦だね。
二度目の戦で織田軍は鉄甲船という、大砲を装備した鉄板張りの大軍船を導入してきたのだ。
信長はやっぱ凄いね~。
恐怖!迫りくる織田軍…秀吉の中国征伐でどうなる毛利氏
1577年…
秀吉率いる織田軍が播磨に入ると、早々に毛利方の武将の守る上月城が落とされてしまいました。
そして1578年、この上月城を奪還すべく隆景とその兄・吉川元春が出陣します。
上月城を守っていたのは山中鹿介ほか、かつて毛利が滅ぼした尼子氏の残党…
この因縁の対決に勝利したのは毛利軍、上月城を無事に奪還することができました。
これを機に周辺の武将が毛利の味方についてくれたし、同時期に織田家家臣・荒木村重が信長を裏切って毛利チームに参入したぞ。
毛利勢、いい波乗ってきた!
…が1579年、備前・備中・美作を支配下に置く宇喜多直家が毛利を裏切り、織田信長の味方についたので雲行きが怪しくなっていきます。
この時期、毛利と織田の領土の中間ら辺にいる武将達がどちらにつくか、その動向に注意しなきゃいけなくて大変だったわけですが、
毛利領と播磨の中間にあり、備前周辺で影響力を持つ宇喜多氏が敵になったのは非常に厄介…。
安芸を本拠地とする隆景達は動きづらくなってしまいました。
これ以上不利な事が続けば毛利チームヤバイぞ…
なんとかせねば!
なんとかする為、隆景が総大将となって備前に攻め入るもあえなく敗北…。
ここらへんから織田方の勢いが止まりません。
同年、荒木村重が織田軍に攻められて敗北し…
1580年には別所長治(信長を裏切って毛利方に味方した)の守る三木城が落城、
さらに共闘していた本願寺が信長に降伏し…
1581年には毛利家家臣の守る鳥取城が落城してしまいました。
そして1582年になると…
備中高松城が3万もの織田軍に包囲されているだと?!
城兵は5000にも満たず、大ピンチではないか!
隆景の配下にある清水宗治が守る備中高松城が織田軍にロックオンされてしまいました。
じわじわと毛利領に迫ってきた織田軍…
このピンチを救うべく、小早川隆景・毛利輝元・吉川元春の軍勢が備中高松城に向かったのであります…!
備中高松城の戦いと小早川隆景の逸話
備中高松城を救うべく援軍にやってきた毛利軍…
しかし、時すでに遅し。
敵の水攻めにより、備中高松城は巨大な湖に浮かぶ孤島と化しておりました。
これでは城に近づく事なんて不可能…。
残念だけど打つ手なし、降伏するしか道はない。
毛利の主力部隊で出動して戦する気満々でしたが、隆景は和睦の方向で動きました。
領地はナンボか譲りますので、城兵の命を保証していただきたい。
領地は当然いただく!
でも城主の清水宗治は切腹するように。
城主の切腹とな…
それは承服しかねる…。
いやいや、こっちもその条件は譲れないから。
交渉は難航しましたが…
清水宗治
いいんです、私の首で皆の命が助かるなら喜んで腹を切りますよ。
宗治殿…。
清水宗治が切腹を受け入れてくれました。
こんな感じで和睦の交渉が進められている最中…
急報~!
信長様が本能寺で明智光秀に襲撃され、ご自害なされたとのことです!
秀吉の元に織田信長の訃報が届きます。
信長の死を知った秀吉は…
こっれは一大事!
早いとここっち片付けて明智光秀を倒しに行くぞ!
もちろん信長様が亡くなった件は内緒で!
バレたら敵の士気モリモリ上がってヤバイ事になりそう~!
ということで早急に
5ヵ国くれっつったけど備中・美作・伯耆の3ヶ国譲ってくれたらいいぜ!
宗治くんも腹を切るってことで、パパッと和睦結んじゃいましょう!
いやあ目出度い!
お祝いのお酒贈りまーす!
3ヵ国譲渡することと清水宗治の切腹を提示し、毛利方もこの条件を受け入れたので和睦が無事成立する運びとなりました。
このお祝いのお酒に関しては
秀吉から贈られてきた酒、毒でも入っているのでは…。
と疑う家臣がいたそうですが、隆景は
誓紙を交わした相手がそのような事をするはずがないであろう。
祝いの酒を飲まないのは失礼にあたる。
と言って進んでお酒を飲んだそうな。
こんな感じでなんやかんやあって清水宗治は切腹、秀吉たちは颯爽と備中高松城を立ち去ったのであります。
そしてそんなタイミングで隆景たちは…
急報~!
織田信長が家臣に襲撃され、自害していた事が発覚しました!
信長の死を知ることになります。
秀吉の野郎!
上手いこと逃げやがって!
毛利方の武将達は激怒。
追って秀吉を討つべし!といきり立つのですが、隆景は…
敵の不幸につけこみ約束を反故にするのは義に反する。
そんなのは大将のする事ではない。
家臣らを諫め、追うことを許しませんでした。
信長が死んでたと分かっていたら下手に出る必要もなかったし、宗治殿が切腹する事もなかった!
許せん!
信長が死んで混乱状態にある今、織田軍を叩くチャンス!行くぞ!!
…ってなっても戦国時代だから全然OKなのに、小早川隆景は至って冷静だしどこまでも誠実なのであります。
この時点で秀吉の力量を認めていて、秀吉を敵にするのはよろしくないと察していたのかもしれません。
実際問題、大軍引き連れてる秀吉と戦うのは簡単なことではないしね。
近くには宇喜多という大きな敵も控えてるし。
この後、隆景(毛利氏)は秀吉に臣従することになるのですが、この時の誠実さが気に入られたか、秀吉から抜群の信頼を得て重用されることとなります。
臣従の証として、私の弟が秀吉のとこへ人質に行ったぞ。
秀包(ひでかね)と言ってね、もとは小早川家の養子だったんだ。
秀吉の傘下に入ってからはトントンと出世して立派な大名に…
1585年…
秀吉は信長の時代から敵対関係にあった土佐の大名・長宗我部元親を降す為、総勢11万(諸説あり)を越える兵を動員して四国征伐を行いました。
小早川の軍勢含む毛利軍はおよそ3万の兵をもって参戦。
毛利軍は伊予から侵攻すると、伊予を制圧する勢いで次々に敵城を落としていきました。
伊予から阿波から讃岐からと、大軍で攻めてきてもう無茶苦茶!!
悔しいけどワシの負けだよ!
四国統一目前だった長宗我部元親は降伏し、土佐一国を安堵されるのみとなりました。
そして元親から召し上げた四国の領土には新たに大名が配置されるのですが、小早川隆景は活躍が認められ、伊予一国を与えられることとなりました。
隆景を独立した大名として認めるのである!
これで隆景は毛利家から離れ、ワシの直臣になったよね♪
素直に受け入れるとこういう事になるわけですが、隆景はあえて伊予は毛利家に与え、毛利家が隆景に伊予を任せるという形にして毛利家家臣という立場を貫きました。
隆景はどこまでも毛利家最優先、清廉潔白の忠臣なのであります。
とても名誉でありがたいお話だけど、私の使命は毛利家を支える事なのでね。
しかし1587年…
秀吉が九州征伐にて薩摩の島津義久を降した後、
隆景くん!
九州征伐参加ありがとうお疲れー!
頑張ってくれたから筑前一国、それと肥前・筑後の一部あげちゃう!
またまた隆景は秀吉に取り立てられちゃいました。
毛利家最優先の隆景は
辞退させていただきます。
最近弟の元春が病死したばかりだし…
毛利家の為、まだまだ若い輝元の側を離れるわけにはいかないので。
当然の如く辞退するのですが…
ダメー!
認められず、不本意ながら秀吉の直臣となっておよそ37万石の大名に出世したのであります。
何はともあれ、毛利氏同様に地方の覇者たる存在であった長宗我部氏、島津氏は秀吉と戦って負けて所領を大幅に削られておりますが、
毛利氏は早くに従う意思を見せたから、大勢力をキープしたまま!
隆景の冷静な判断のおかげでしょう。素晴らしい。
輝元は中国地方9ヶ国におよそ120万石を領する大大名であるし、私も個人で九州に所領を与えられている…。
この頃の毛利一族、強すぎでしょ!
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日本軍ツエー!!な文禄の役、碧蹄館の戦いでは小早川隆景も大活躍
1590年、豊臣秀吉は関東の北条氏を降して天下統一を成し遂げました。
そして1592年…
次は明(中国)を征服してやるのだ!
まずはその玄関となる朝鮮へGo!
秀吉はさらなる野望を抱き、小早川隆景ほか小西行長、加藤清正、黒田長政、島津義弘、福島正則らを朝鮮へと派遣しました。
私は六番隊の主将として参戦!
毛利家当主の輝元も一緒にね。
日本軍は朝鮮に上陸すると、抵抗らしい抵抗をうけずに進んで行き、
要所を抑え、朝鮮の王を捕えたり…と順調に朝鮮を制圧していきました。
が、しかし、
その後、明から援軍がやってきて小西行長が占拠していた平壌城が落とされてしまいました。
やられたゴメーン!
ヤバいよ日本!
明から凄い数の援軍がやってきたよー!!
武将達は各地にそれぞれ拠点を置いていたのですが、
参考までに。朝鮮出兵に出てくる地域の場所ザックリ
この緊急事態に漢城へと撤退します。
敵はかなりの大軍だそうで…
城を包囲されてしまうと兵糧は途絶え、日本軍はおしまいだ!
そうなる前にこちらから打って出て、連合軍を倒そうではないか!
籠城したほうが良いとの意見もありましたが、小早川隆景や立花宗茂の意見が通り日本軍は積極的に敵を迎え撃つ事になりました。
そして立花宗茂が先陣を切り突破口を開くと、第二軍の先陣を小早川隆景が行きました。
碧蹄館の戦いと呼ばれるこの戦は日本軍の勝利、敵はあまりの日本軍の強さに戦意喪失し、これを機に和睦を考えるようになったとの事です。
日本軍も長期の遠征で疲弊してたし、この後は和睦の話し合いが開始され、ひとまず停戦となったよ。
難題も上手く解決!小早川隆景は何が何でも毛利家を守る
1593年…
豊臣秀吉と側室・淀殿の間に子供が誕生しました。
後に豊臣秀頼と名乗る事になる男の子であります。
実子が長い間いなかった秀吉はこの秀頼を溺愛するあまり、跡継ぎ候補として可愛がってきた養子をちょいと疎ましく思うようになりました。
秀吉が特に可愛がっていた養子に、秀俊という人物(秀吉の正室の甥)がいたのですが、
秀頼ちゃんが一番可愛い~!
秀頼ちゃん秀頼ちゃん秀頼ちゃん~♪
秀吉の正室・ねね
(今や旦那は秀頼の事しか頭にないわ。
このまま豊臣家にいたら、秀俊は不幸になってしまうかも…。)
色々と考慮した結果、秀俊は他家へ養子に出されることになります。
で、養子先に…と目をつけられたのがまさかの毛利家でありました。
ワシの身内の秀俊が毛利家の跡継ぎになれれば、毛利家および中国地方が直に豊臣家のものになる!
最高っ!!
これは何気に毛利家最大のピンチ…!
毛利家当主の輝元くん、まだお子さんいないんですってね。
そこでよ、ウチの秀俊を輝元くんの養子にするのはいかがかな?
跡継ぎ問題とか色々あると思うし…ね?
小早川隆景のもとに、黒田官兵衛を通してこのお話が持ち込まれるのですが…
Oh…
確かに輝元には子がおりませんが、毛利家の跡継ぎはもう決まっておりましてね…。
私の甥っ子であり、輝元の養子になってる秀元ですよ。
秀吉様もご存知だったと思うのですが…。
当然、簡単にOKと言えるわけがなく。
(しかしこれを断れば、今後毛利家の立場が悪くなるかもしれない…。)
このパワハラともいえる難題に隆景は…
えっ、
なんなら私のほうが子供がいなくて跡継ぎに困ってたところです!
是非とも、その子を私の養子にいただきたいのですが!
お願い致します!なにとぞ!!
普通に断って遺恨が残るといけないので、『隆景たってのお願いで秀俊を小早川家の跡継ぎとして養子にもらった』という状況を作って秀吉の顔をたてつつ、豊臣家の毛利家乗っ取りを阻止しました。
立ちまわりが上手い、流石であります。
毛利が中国で覇権握るのにどれだけ苦労してきたと思ってるんだって話よ。
よその血筋で断ち切られてたまるかってんのね。
この秀俊が 聡明な子で将来が楽しみ!…って感じの人物だったのならまぁそれも良かったのでしょうが、
秀俊は秀吉のご威光だけで輝いているお坊ちゃまであり、12歳という若さでお酒に溺れていたようなダメダメ武将だったそうで…
天下人に
日本の西は隆景に任せれば安泰!
とまで言われた隆景の跡継ぎが、血の繋がりがないばかりかこんな感じの人物なんだから酷な話であります。
小早川家は犠牲となったのだ。
全ては毛利家の為…!
秀俊はこの後、『秀秋』と名乗るよぉ。
あの有名な小早川秀秋ですよぉ。
小早川隆景は天下人の期待を背負い、政権トップの役職につくも…
1584年に秀俊を養子に迎えた後、小早川隆景は五大老と呼ばれる豊臣政権の最高役職に任命されました。
【五大老メンバー】
徳川家康
前田利家
毛利輝元
宇喜多秀家
小早川隆景
上杉景勝
しかし、隆景はその後まもなくして家督を秀秋に譲って隠居しました。
隠居後は穏やかな日々を送っていたとのことですが、1597年に病でこの世を去ることとなります。
黒田官兵衛は隆景の訃報を聞いて
日本に賢人が絶えた。
と嘆き、
豊臣秀吉は
我が邦(国)の鎮を失った。
と嘆いたと伝わっております。
官兵衛や秀吉レベルの武将にここまで言わせる小早川隆景、どれほど優秀で人望があったのか計り知れませんね。
ちなみに、五大老に関しては私の死後に上杉景勝がメンバー入りしたとも、
役職について間もなくして私が死に、5人になったから『五大老』と呼ばれるようになったとも…。
隆景が亡くなった後、小早川家と毛利家は…
小早川隆景が亡くなってから約3年後、関ヶ原の戦いが勃発。
毛利輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めたが故、敗軍の将となり大幅に所領を削られ、およそ120万石から30万石の大名に転落してしまいました。
毛利一門の跡継ぎとなった小早川秀秋も当然、毛利輝元と同じ西軍だったのですが小早川秀秋は味方を裏切り東軍の勝利に貢献したので逆に出世しております。
が、小早川秀秋は関ヶ原の戦いからわずか2年後に死去してしまいました。
※死因は諸説アリ。
秀秋は毛利輝元の養女を妻に貰っておりましたが、2人の間に子はおらず悲しい事に小早川家は断絶してしまったのであります…。
この頃まで私が存命してたら毛利家も小早川家も、違った未来があったはず…!
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