織田信長と前田利家!その関係やカッコイイエピソードなど
加賀百万石・前田藩の礎を築いた前田利家・・・
晩年の前田利家は【豊臣政権のトップに立つ大御所大名】ってイメージがあるけど、若い頃はとっても血気盛んで強い武士だったの。
織田信長との関係や出来事もなかなかに興味深い!
ここでは前田利家が織田家家臣だった頃の歴史やエピソードをゆるりと解説しているわよ~♪
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若い頃はブイブイいわしていた前田利家
前田利家が織田信長に仕えるようになったのは1551年、14歳の時です。
後々、豊臣政権下で徳川家康と並ぶ大大名になる前田利家ですが、
意外にも父・前田利春が当主だった頃の前田氏は、尾張の荒子村という小さな土地を束ねる土豪であり、信長直々の家臣でもなく織田家家臣・林秀貞の下で働く下級武士でした。
そして前田利家は若い頃、ゴリゴリの傾奇者だったそうで
『色白で長身。女物みたいな派手な恰好、めちゃくちゃ長い赤鞘の太刀を腰に差し、朱塗りの槍を担いで・・・』
といった見た目で流行りの歌を歌いながら街を練り歩いたもんで、街の荒くれ者ですら
うわっ、荒子の傾奇者だっ!
と近寄らなかったそうです。
多分、現代でいうとこの地元の有名なヤンキーみたいな感じだったんだと思われます。笑
傾奇者とは、派手な見た目や行動でやんちゃしたりする人の事を指す言葉だよー!
目立ってナンボ!みたいなね。
傾奇者といえば、織田信長もかつては『尾張のうつけ』と言われる傾奇者でした。
そんな信長、同じ匂いがする前田利家を気にいったか
お犬~
※前田利家の幼名は犬千代。
と利家の事を呼んでめちゃくちゃ可愛がっていたそうです。
後年、前田利家は
ワシ、若い頃信長様とハァン///な関係だったんだぜ。
超可愛がってもらってたからね。
とまわりに自慢していたんですって。
出会った頃は前田利家14歳、織田信長18歳…、
主君との衆道関係って歳が離れてるとお務めって感じがするけど、この年齢差だと純愛だったのかもしれません。
ワシ、背も180cmぐらいあったしイケメンって言われてたし。
そりゃ信長様もお犬に夢中になるわな。
さすが『槍の又左』!利家は最初から強かった!
前田利家の初陣は16歳、織田家の跡継ぎ争いがもとで起こった織田一族同士の戦、尾張・萱津(かやづ)の戦いでした。
どれだけやる気満々だったのか、前田利家はこの戦で真っ先に敵陣に突入して一番首を挙げるという武功を立てております。
これには織田信長も
デビュー戦だぞ?!
肝に毛が生えてんとちゃうか?!
と大興奮。
そしてもっと凄いのが、初陣から5年後に起った『稲生の戦い』です。
この戦は、織田信長が弟・織田信行に謀反を起こされた事で始まった戦であります。
信長軍700の兵に対して弟・信行軍は7000の兵…。(兵の数は諸説アリ)
10倍もの兵力差という、信長側にとってはかなり厳しい戦となりました。
前田利家はこの戦でも勇猛果敢に敵に突撃!
…したものの、敵の宮井勘兵衛という者の放った矢が右目の下に突き刺さってしまいました。
。
しかし、前田利家はこれをものともせず。(絶対痛い。)
矢が顔に突き刺さったまま、怯むことなく突き進んで宮井勘兵衛を討ち取ったのであります。
信長様!
首とりましたぞー!!
信長はこの首を受け取り、馬上からこれを掲げて
見ろ!利家がやってくれたぞ!
皆も利家に続き励むのだ!
と味方の兵士を鼓舞しました。
ハンパねぇ!
矢ァ突き刺ささっとるのにカッコよすぎるぜ!
前田利家の勇敢な姿に軍の士気は大いに上がり、圧倒的な兵力差がありながら信長軍はこの戦で奇跡的勝利を収めたのでした。
この後、信長様にめちゃ褒められたし同僚達からは憧れの存在となったぞ!
そしてこの後、前田利家はいとこで10歳ほど年下のまつと結婚しております。
22歳で12歳の妻!!
しかもイトコ…戦国時代ってホントどうかしてるぜ。
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前田利家、茶坊主とのトラブルでまさかの織田家追放
可愛い少女妻をもらい、着々と戦場で武功を挙げ、出世街道まっしぐら!順調な人生!
…と思えた前田利家ですが、織田信長に仕えてから約8年後に大事件を起こしてしまいます。
信長には拾阿弥(じゅうあみ)という名のお気に入りの茶坊主がいたのですが、
この拾阿弥、信長のお気に入りだという事でかなり調子に乗っていたらしく、武将達の物を隠したりとよく悪戯をしていたそうです。
そして前田利家もその被害にあっており、拾阿弥に対してかなりストレスを溜めておりました。
あの茶坊主、最近度が過ぎる!
ブチころしたるわッ!!
佐々成政
信長様のお気に入りだし…
気持ちはわかるけど抑えて抑えて。
同僚がなだめるも、前田利家の気はおさまらない。
ついには信長に直接、こんな事を申し出ます。
拾阿弥が悪い事してるんでヤっちゃっていいですか?
よく言っとくから今回は許してあげて?
拾阿弥討伐の許しは貰えず、やむなく諦めた前田利家でした。
が、この後、拾阿弥サイドの人達が
利家殿、残念だったね。
プークスクス(笑)
なんて言っているのを耳にしてしまったので
このままでは武士の面目丸つぶれ…。
許さん。
との事で、ついに拾阿弥を斬ってしまいました。
しかも織田信長の目の前で。
でてけー!!!!
もちろん、織田信長はブチ切れ。
前田利家は問答無用で織田家を追放され、浪人となってしまったのであります…。
ホントは処刑されかけたんだけどね、柴田勝家殿が庇ってくれたおかげで命拾いしたのだ・・・。
前田利家、復活!なんだかんだでやっぱり強い!
織田家の武闘派エースから武闘派ニートになってしまった前田利家…。
このままでは終わらせない!
ワシには愛する妻と子もいるんだ!必ずや復帰してみせるぞっ!!
織田家を追い出されてから2年後の1561年、織田信長と美濃・斎藤龍興の間で戦が起きると、前田利家はこれに個人で参戦しました。
そして見事に兜首2つを取り、これを織田信長に献上します。
相変わらず強いね、さすがは槍の又左。
殿…(´;o;`)
…おかえり///
前田利家はこの戦で武功を挙げたことでやっと信長から許され、再び織田家に復帰することができたのでした。
その後も利家は戦で大活躍。
赤母衣衆の筆頭に抜擢されるなど、織田家でメキメキと頭角を現していきました。
1570年に起こった姉川の戦い(織田・徳川VS浅井・朝倉)では、浅井軍の攻撃で総崩れとなった時、利家が一人で敵を食い止め数騎を倒し、反撃のきっかけを作ったなんてエピソードもあります。
利家の戦場エピソードはシンプルに、強くてカッコイイ!って感じで痺れますね。
これらの活躍によって信長様から『比類なき日本無双の槍』と絶賛されたのだ!
ところで前田利家の赤母衣衆とは?
※大きな籠を母衣という布で覆ったものを背負って戦場を駆ける。
母衣衆(ほろしゅう)は戦場で主君の命令を伝達したり、身辺警護を務める名誉ある役目。
織田軍には赤母衣衆と黒母衣衆とあり、それぞれ10名で構成されていた。黒母衣衆の筆頭は佐々成政。
この母衣を背負う華やかな騎馬姿は武士達の憧れの的だったんですって。
前田家当主に!そして本能寺の変…
織田家に復帰してからも数々の武功を挙げた前田利家…
その功績が認められ、1569年には信長の命令で前田家の家督を継ぎ、荒子城城主となり6000石を与えられました。
そして1575年には越前を制圧した信長から越前の一部に3万3000石与えられます。
柴田勝家リーダーのもと、佐々成政らと共に北陸方面を担当!
そこにのさばる一向一揆らと戦っていたぞ!
一向一揆を片付け、北陸方面を織田信長が制圧すると前田利家は1581年に能登・七尾城城主となり23万石を領する大名へと大出世します。
そしてこれから約1年後、本能寺の変にて織田信長が死去。
これによって織田家家臣たちの間にもだんだんと派閥が出来ていきます。
前田利家はというと、北陸方面で協力していた柴田勝家や佐々成政とは決別する道を選び、豊臣秀吉の元で新たに時代を切り開いていくのであります…!
続き:前田利家の賤ヶ岳合戦!柴田勝家や豊臣秀吉との関係や仲について
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