池田恒興は織田家家臣&清須会議メンバー!その歴史、無念の最後とは

池田恒興は織田家家臣&清須会議メンバー!その歴史、無念の最後とは

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信長の乳兄弟、池田恒興をゆるりと楽しく解説!

池田恒興,織田家家臣,清須会議,小牧長久手

生涯 1536年~1584年
出身 美濃(?)
全盛期 美濃大垣13万石
主君 織田信秀・信長・信忠、羽柴秀吉
有名な親族 池田恒利、池田元助(長男)、池田輝政(次男)、森長可(娘婿)
思い出の戦 桶狭間の戦い、姉川の戦い、花隈城の戦い、山崎の戦い、小牧長久手の戦い
池田恒興といえば 信長と乳兄弟、娘の旦那が鬼武蔵

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池田恒興ってどんな武将?

ぶっちゃけそんなに知名度は高くないかもしれない池田恒興!


2014年にドラマ化した漫画『信長協奏曲』で向井理さんが演じていたのがこの武将…って言ったらピンとくる人も多いかも??

 

今回は池田恒興の織田家時代の活躍や歴史、無念の最後なんかをゆるりとご紹介~!

 

池田恒興は母の乳で人生が開けたラッキーボーイ

 

池田恒興の出身は美濃国池田??なんて噂されているけど、真相は不明なようです。

とにかく恒興の父の代から織田家に仕えていたのは間違いナシ。

 

そして織田信長が数え年で2歳になる頃、池田恒興の母・養徳院が信長の乳母をつとめることになったのが池田家のターニングポイント。

 

母・養徳院が信長の乳母となったことで池田恒興も幼い頃から信長の側におり、そのまま小姓からスタートして信長に仕えるようになったとのことです。

(しかも後に、母親は信長の父の側室になっている。)

 

 

ちなみに私は信長様の二歳年下だよー!


 

池田恒興と織田信長は同じ乳で育った間柄…。

若くして信長の取り巻きの一人となり、何事もなければ将来安泰!

 

…といったポジションにあったというわけです。

 

が、しかし、

 

池田恒興は14歳の頃に同僚と喧嘩し、怒りのままにこれを斬殺。

 

 

やっちまったぜ。

どんな処罰が下されることやら…怖いっ。


 

と言ったかは謎ですが、逃げるように織田家を去っていきました。

 

そしてこの数年後…

やっぱり織田家に未練があったか、 恒興は尾張で起こった戦に馳せ参じ…

 

 

武功あげたど!

織田家に戻りたいです!


 

なんとか帰参を許され、織田家に復帰しました。

そこからはマジメに織田家に尽くしていく事になります。

 

ちなみに、信長を亡き者としようとしていた織田信行(信長の弟)を刺し殺したのが池田恒興だった…という逸話もあるみたいです。

 

 

信行暗殺事件は不明な点が多いから、真相は謎だけどねっ。


 

池田恒興の織田家時代の活躍とは?

 

池田恒興は知的な武将というよりかは、戦場での活躍を主とした武将!

 

織田信長に従って今川家や武田家、本願寺、一向一揆衆、その他もろもろ多くの戦に参加してきました。

 

 

ここで恒興の織田家時代の活躍をご紹介!


 

池田恒興の織田家時代の戦歴

 

1560年の『桶狭間の戦い』で武功を挙げ、侍大将に取り立てられる

 

1561年の美濃で起こった『軽海の戦い』では佐々成政と共に敵将・稲葉又右衛門を討ち取る武功を挙げた。

 

1570年頃からは浅井、朝倉勢との戦に参加。

姉川の戦いでは二番手を務める。

 

この戦で恒興の軍勢は浅井・朝倉連合軍の反撃にあい、総崩れとなってしまうが

 

 

討ち死に上等!


 

の覚悟で戦いに挑み、武士の意地を見せつけた。

 

家臣の森寺秀勝父子の活躍で窮地を脱し、無事生還。

この後、犬山城城主となる。

 

1580年、荒木村重が信長に謀反を起こした際に花隈城を攻め、これを落城させた。

 

戦後、織田信長から贈られた感状には

 

 

その手柄、無類!


 

とあるので、素晴らしい活躍を見せた模様。

 

この後、池田恒興は荒木村重の旧領・摂津を与えられました。

 

明智光秀討伐に大貢献!織田家の中心メンバーへ

 

1582年、本能寺の変勃発。

明智光秀の謀反により、織田信長が死去するという大事件が起こりました。

 

この時、池田恒興は何をしていたのかというと中国地方で戦をしている羽柴秀吉の援軍に向かう為、戦準備を整えていたところでした。

 

 

明智光秀から協力してくれって書状きた…。


 

池田恒興は明智光秀の与力という立場だったのですが、この誘いには乗りませんでした。

 

 

私は信長様の乳兄弟だもん。当然!


 

そして池田恒興は

 

 

羽柴秀吉、明智光秀を倒すために京へ戻りまーす!


 

との一報を聞くと戦支度を整え、およそ5000の兵を率いて羽柴軍と合流しました。

 

そしてこれをもって羽柴秀吉VS明智光秀の『山崎の戦い』に参加。

 

池田恒興,織田家家臣,清須会議,小牧長久手

 

右翼から果敢に明智軍を攻めたて、羽柴軍の勝利に大貢献したのであります。

 

 

この功績で私はこれまで以上に、織田家の中で存在感を増していくのである…!


 

池田恒興は清洲会議のメンバー

 

山崎の戦いの後、新しい織田家当主を決める為の会議が池田恒興、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀の4名で行われました。

 

俗に言う『清須会議』であります。

 

 

このメンバーは織田四家老(四宿老とも)と呼ばれているよ。

ちなみにこの中じゃ、私が一番小物さ…。


 

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この跡継ぎ争いでは羽柴秀吉と柴田勝家が対立。

勝利を得たのは信長の孫・三法師を推していた羽柴秀吉でした。

 

池田恒興はこの際、羽柴秀吉の肩を持ちました。

 

この約1年後に勃発した『賤ヶ岳の戦い(秀吉VS勝家)』でも羽柴秀吉の味方についております。

 

 

『賤ヶ岳の戦い』自体には参加してないんだけどね。


 

『賤ヶ岳の戦い』では羽柴秀吉が柴田勝家を滅ぼし、完全勝利を収めました。

 

これによって羽柴秀吉が天下に最も近い人物となったわけであり、その配下にある池田恒興も益々安泰!

 

 

この一連の争いの後、私は織田信孝の旧領を与えられ美濃に13万石を領する大名となったぞ。

 

そして私の長男・元助は岐阜城主に。

超ビッグ!ってわけじゃないけどいち大名としては十分だよね~!


 

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小牧長久手の戦い勃発!その時、池田恒興は…

 

織田信長の死後、メキメキと頭角を現していった羽柴秀吉…

 

そんな羽柴秀吉が気に食わなかったのが、織田信長の次男・織田信雄でした。

 

 

天下の織田家が秀吉に乗っ取られつつある…!

このままでは織田家は終わりだよ!助けて家康さん!


 

 

お任せあれ!

主家を乗っ取る悪者、羽柴秀吉を私が成敗してあげましょう!


 

織田信雄が頼ったのは織田の長年の同盟相手、徳川家康。

 

信長の死から約2年後の1584年…

羽柴秀吉VS織田信雄・徳川家康の『小牧長久手の戦い』が勃発することになります。

 

何気にこれは池田恒興にとって天下分け目の大戦!

 

織田信雄・徳川家康サイドには

 

 

織田家を乗っ取る悪者、秀吉を倒そう!


 

という大儀がありますが、羽柴秀吉の築き上げた地位、権力は相当なもの。

敵に回したくない相手であります。

 

 

秀吉と信雄、どっちからもお誘いがきた…。

どうしよう。


 

家臣A

 

秀吉につくべき!

天下の形勢が今、秀吉にあるのは明白ですぞー!


 

家臣B

 

信雄につくべき!

秀吉についたら大恩ある織田家を裏切ることになりますぞ!


 

池田恒興は悩みに悩みましたが…

 

 

義父さん、俺は秀吉につくぜ!


 

家臣

 

秀吉は勝ったら殿に尾張一国くれるって言ってますし。


 

娘婿の森長可や家臣の強い説得があったのと、魅力的な恩賞を提示されていたのもあり、羽柴秀吉の味方につくことを決めました。

 

 

信雄には悪いけど、戦国時代を生き残る為だもんね。


池田恒興の最後!小牧長久手の戦いでは策を進言するも…

 

池田恒興が秀吉につくと決めてからの行動は早く、手始めに信雄側の城となっていた犬山城に夜襲をかけ、これをサクっと落としました。

 

これには信雄、家康もビックリ。

 

 

池田恒興はゴリゴリの織田家側の人間だから絶対こっちにつくと思ってた!


 

この後、両軍は尾張の小牧山に集結。

羽柴軍10万VS信雄・徳川連合軍3万(諸説アリ)という結構な兵力差で戦がスタートすることに…!

 

 

数では有利だけど、家康は戦上手だしうかつに動けないよ~。


 

両者とも慎重。

睨み合いが続く中、この状況を打開するための作戦を進言したのが池田恒興でした。

 

 

兵を割いて家康の本拠地、岡崎城を攻めましょう!

家康は今、こっちに兵を集中させてるから三河は手薄!


 

 

イイネ。

それに岡崎城が襲われたとなれば、家康は慌ててここから兵を退くだろう。

 

家康が動いた所を残りの兵で追撃することもできるぞ。


 

 

そんな上手くいくかなぁ?


 

秀吉は渋ったようですが、恒興の娘婿・森長可や秀吉の甥・秀次はこの作戦にノリノリ。

 

およそ2万の兵を

 

一番手 池田恒興
二番手 森長可
三番手 堀秀政
四番手 秀吉の甥・秀次(三河攻め総大将)

 

このように分け、夜陰に紛れて三河へと進軍を開始しました。

 

しかし、徳川家康はすぐにこの動きに気づき、

 

 

敵はワシらにバレてないと思ってるみたいだし、先回りして奇襲でもかけてやろう!


 

とこれまた夜陰に紛れて進軍を開始しました。

その数およそ1万8000、池田恒興らと同等の戦力です。

 

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三河までの道中、敵の支城も落としてくよー!

まったり行くぜ。


 

 

(我々の進軍に気付いてない羽柴軍…。隙だらけだぜ。)


 

徳川軍は長久手付近で包囲網を敷き、羽柴軍を挟撃しました。

 

 

突然の奇襲で大ピンチ!

対応しきれないよー!


 

池田恒興はただでさえ不利な状況にあるのに、鞍に銃弾を食らって落馬してしまうという不幸にも見舞われ…

 

 

こうなるともう逃げる選択肢なんてないっ!!


 

命尽きるまで敵と戦い、長久手の地で49年の人生を終えたのでした。

 

ちなみに、恒興の長男・元助や娘婿の森長可もこの戦で討ち死にしております。

 

織田家に忠義を尽くして信雄・家康につけば、こんなことにはならなかったはずっ…!

 

 

色々と判断ミス?!

無念…!


 

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おまけ・池田恒興亡き後の池田家は大出世!

 

池田恒興とその長男・元助の死後、池田家の家督は次男の輝政が継ぐこととなりました。

 

輝政はそのまま秀吉に仕え、後に徳川家康の娘・督姫と結婚。

秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは東軍についております。

 

そして輝政は戦後、播磨姫路52万石を与えられました。

 

恒興の死後、池田家は中国地方に名を馳せる大名家へと成長したのであります…!

 

 

しかも輝政の全盛期、90万石だって!

ビッグになったのぅ。


 

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