山崎の戦いをわかりやすく!明智光秀の最期の戦、その時秀吉は?

明智光秀の最後、山崎の戦い!秀吉の中国大返しから戦をわかりやすく解説

徳川家康 ラインスタンプ

明智光秀の最後!VS羽柴秀吉、山崎の戦いをわかりやすく

 

1582年6月2日、明智光秀は織田信長・信忠親子を滅ぼし京を制圧した。

 

 

信長を討った事でかなり情勢は乱れるだろうな。

そして反逆者である私を討つべく武将達は結束を固めてくるだろう。


 

誰も知るところではなかった突然の謀反は暴挙のように思えるが、実は明智光秀にはきちんとした勝算があり、その後をちゃんと見据えての謀反であった。

 

まず、明智光秀がこのタイミングで謀反を起こしたのには、織田の武将達が各地に遠征中ですぐに明智光秀に対抗できる勢力が京周辺にいなかったから…という理由がある。

 

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本能寺の変勃発時の織田家家臣達の状況

筆頭家老の柴田勝家、佐々成政、前田利家らは越中で上杉と戦をしていた。

 

本能寺の変で討ち死にした森蘭丸の兄・森長可も上杉領の越後に攻め入っていた。

 

滝川一益は関東で北条や国人勢力と対峙していた。

 

丹羽長秀は信長の三男・信考は四国征伐にとりかかっていた。

 

羽柴秀吉は中国遠征中。毛利の大軍と対峙、岡山の備中高松城を包囲し、織田・明智の援軍待っていた。

 

 

奴らが戦準備を整え、こちらに攻め入ってくるのに早くても一月はかかるはず…!

この間に体制を整え地盤を固めるぞ!


 

明智光秀にはこの争いに勝利する為のとっておきの策略があった。

 

 

中国の毛利氏と手を組む!


 

明智光秀の不幸、羽柴秀吉の幸運

 

かつて織田信長に京を追放された将軍・足利義昭は中国の毛利氏に保護されていた。

 

その毛利氏は織田と敵対関係にあり、現在進行形で羽柴秀吉と戦をしている…

 

 

毛利には足利義昭を奉じ、秀吉を討ち破って上洛してもらう。

 

将軍、毛利が中心になれば多くの味方を得る事ができるのだ。


 

単独では敵わないのを十分に承知していた明智光秀は、将軍の権威と大勢力である毛利を戦略の要とする事で勝利を得ようと考えていたのである。

 

がしかし、

 

光秀が毛利氏に送った使者が備中高松城付近で道に迷い、運悪く羽柴勢に捕らえられてしまった。

 

協力を呼びかける書状は毛利氏の元へ届く事はなく、明智光秀の策は初っ端から崩壊してしまったのである。

 

 

そしてこの明智光秀の不幸は、羽柴秀吉にとっての幸運となった。

 

 

明智が信長様を…?!


 

 

キタキタ!殿にツキが回ってきたよ~?!天下取る大チャンスじゃないですか~!

 

信長様の仇を討ったとなると羽柴の名は世に轟きますぞ!

なんとしてもこの戦に勝利し、天下の覇権を握ってやりましょう!


 

 

そうね!まずは信長様の仇討ちだ!

天下は…まぁ、あわよくば?///


 

 

イェス!

そうとなれば早速これからの策を考えましょう!


 

 

(いや待てよ…コイツ…

 

確かに天下取るチャンスだけどさぁ…

人の主君が亡くなった時によくもそんな事を言えたもんだよ…。このギラつき具合、油断ならんな…。)


 

黒田官兵衛はこの時の節操ない発言で秀吉に危険人物と警戒され、後に冷遇されることとなる。

 

さておき、秀吉はすぐさま明智光秀のいる京へ向かう事を決める。

 

織田信長の死を隠したまま毛利氏と和睦を結び、早急に戦場から兵を退いたのであった。

 

 

(信長公の死を知ったら毛利はワシらに牙を剥いてくるに違いないからね!)


 

この後、本能寺の変の一件を耳にした毛利の武将・吉川元春は激怒して秀吉を追撃しようとするのだが、小早川隆景が

 

 

一度和睦を結んだ以上、それを破るのは不義理な事だ。


 

と反対したので、毛利はそれ以上動くことはなかった。

 

秀吉はたまたま明智の使者を捕らえたという幸運によって、毛利の大軍の動きを封じ、信長の仇討ちに誰よりも早く向かうことができたのである。

 

秀吉が備中高松城を離れたのが6月6日、本能寺の変から4日後の事であった。

 

それから秀吉は3万近い大軍を昼夜兼行で走らせた。

 

嵐に見舞われる事もあったが、それでも泥まみれになりながらひたすらに進んだのである。

 

そうして、秀吉の大軍は6日間という驚異的なスピードで摂津(大阪)へ辿り着くことができた。

 

 

『中国大返し』!この驚異的な速さが今回の戦の勝利のカギとなるのだっ!!


 

とばっちり!織田家の争いに巻き込まれた徳川家康

 

話は戻って、本能寺の変の直後…

 

光秀は京の治安維持に努めたり、配下の武将や各地の大名に味方についてもらうよう書状を送ったりと行動を起こしていた。

 

 

細川親子、筒井順慶など私と縁のある武将達は味方になってくれるはず!


 

この時点ではまさか秀吉に策を潰されるなんて思ってもいない。まだまだ余裕はあった。

 

 

さて、堺にいる徳川家康をどうするか。後々厄介だからできればこの機に潰しときたいな。


 

………

 

 

明智が本能寺で謀反?!

近くじゃん!ヤバすぎない?!


 

徳川家康はこの時、信長の招きに応じて堺の町を観光していた。

 

 

ヤバイですよ!

徳川は織田の同盟相手だし明智に狙われる可能性が!


 

 

観光気分で来たから配下も少ししかいないし戦準備なんかもないんだけど?!


 

 

攻められたら終わり!

すぐに堺を脱出しましょう!


 

徳川御一行は明智の軍勢に見つかる前に堺を離れ、三河の岡崎城へと逃亡を開始する。

 

 

恩賞目当ての奴らがわんさか襲ってくる!

もうムリ腹切って殉死する(´;ω;`)!


 

 

ダメ!何が何でも生き延びるのですっ!

漏らしてもいいから弱気にならないで!


 

徳川家康達は野武士の襲撃にあいながらも必死で道を進んだ。

 

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伊賀を越え、海を渡り、ボロボロになりながらも無事に岡崎城へ帰還したのである。

 

 

諦めないで良かった…。


 

ここで徳川家康を逃してしまった明智光秀だったが、6月4日には安土城や長浜城など、織田側の城を占拠することに成功している。

 

これにより、近辺の地侍たちを味方にすることができた。

 

がしかし、

 

ここにきてまた新たな不幸が光秀を襲った。

 

信長の三男・織田信孝と丹羽長秀が挙兵し、大阪城にいた明智光秀の娘婿・津田信澄を殺害したのである。

 

 

信澄が討たれた…?!

信孝や丹羽は四国へ向かっていたはずでは?!


 

織田信孝・丹羽長秀は信長に四国征伐を命じられており、本当なら今頃は船の上にいるはずだった。

 

しかし悪天候だった為に予定通り出発できず、実は光秀のいる京のすぐ近く、摂津に滞在していたのだ。

 

明智光秀は偶然にも運がなかったのである。

 

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さらなる不幸、味方を得られなかった明智光秀

 

本能寺の変の直前、光秀と同じく中国攻めの援軍組だった細川幽斎・忠興親子は、光秀と時間差で備中高松城を目指して進軍していた。

 

そして親子は進軍中に本能寺の変を知ると、すぐに居城に引き返して情勢を伺った。

 

 

えらいことになってるぞ…。

どうしよう…。


 

細川幽斎と明智光秀は仲が良く、忠興は光秀の娘・たま(細川ガラシャ)を娶っている。

 

気持ち的には明智光秀の肩を持ちたい所だけど、事態が事態なだけにそう簡単に決められる事ではなかった。

 

 

もう少し様子を見るしか…。


 

細川幽斎はとりあえず剃髪して喪に服した。

織田信長への忠義を示しつつ形勢を見守ったのである。

 

そして1日、2日…と経つにつれ段々と情報が明らかになってくる。

 

織田信孝・丹羽長秀が挙兵した事、

津田信澄が討ち死にした事、

羽柴秀吉が毛利氏と和睦して大軍で京に向かっている事…

 

 

これは明らかに光秀が不利なのでは…。


 

そして思い悩んでいるうちに羽柴秀吉からこんな書状が届いた。

 

 

信長様も信忠様も無事です!京を脱出して近江に落ち延びております!

明智にそそのかされて変な行動とっちゃダメよ!


 

秀吉は嘘の書状を武将達に送り、光秀の味方を作らないように工作していたのである。

 

 

えぇ?

どっちも自害したって聞いたけど…


 

さすがに信長生存説は怪しいと感じた細川親子だったが、真実はわかりかねるし状況も考慮して結局は明智光秀の要請に応じず。

 

その他にも池田恒興、高山右近といった畿内の武将達に筒井順慶が秀吉の味方についた。

 

筒井順慶

 

光秀殿には松永久秀に奪われた領地を復活させてもらったり、色々恩があるけど…。


 

親戚である細川親子、よくしてやった筒井順慶、明智光秀はまさか彼らに裏切られるとは思ってもいなかった。

 

 

なぜ誰も来ないのだ…。


 

本能寺の変から8日後の6月10日、大和の国境で合流する予定の筒井順慶はいくら待っても現れず…。

 

毛利氏になじみの武将、明智光秀は頼りにしていた味方を一人も得られずに秀吉と戦をする事になってしまったのである。

 

決戦の地は山崎!ここでも光秀は秀吉に遅れをとる…

 

 

皆が皆、私の味方についてくれるとは思っていなかったが…

こうもことごとく見放されるとは…。


 

毛利との内通も失敗し、信頼していた武将達にもことごとく見捨てられた。

 

その上、驚異的な早さで信長の家臣団が結集して戦準備を整えている。

 

 

時間の猶予はない!

早々に敵を迎え討つ準備をせねば!


 

明智光秀は京と摂津の境にある山崎という地で羽柴秀吉率いる大軍を迎え撃つ事に決めた。

 

 

まず、山崎にある天王山を占拠する。

平野に広く展開される前に秀吉軍を一気に叩き潰す!


 

光秀は隘路を抜けてくる秀吉軍を、正面、天王山からなだれ込むように攻撃するという策を考えていた。

 

兵の数で劣る光秀が秀吉に勝つには天王山の占拠が絶対的条件にあった。

 

が、

 

光秀がこのような策を考えている頃、秀吉も摂津で軍議を開き戦準備を開始していた。

 

 

決戦の地は山崎になりそうね。

早いとここの地を抑えとこう!


 

本能寺の変から10日後の6月12日、秀吉は高山右近に山崎の町を占領させ、中川清秀には天王山を占拠させた。

 

考える事は光秀と同じ、天王山はこの戦の勝敗を分ける重要拠点。

 

秀吉は山崎の地で戦をするにおいて、有利となる場所を開戦前に占拠したのである。

 

 

完全に遅れをとってしまった…。


 

味方を得て膨れた秀吉の軍勢が4万もいるのに対し、光秀の軍勢は1万3000ほど。

 

ただでさえ兵力差で不利なのに、光秀は地の利まで奪われてしまった。

 

天王山を占拠できなかった光秀は止むを得ず、兵を本陣の勝竜寺城へと撤収させたのだった。

 

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山崎の戦い

 

翌日の6月13日、明智光秀と羽柴秀吉はついに山崎の地でぶつかった。

 

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明智光秀は右翼で天王山を抑えつつ、中央、左翼で羽柴軍が隘路を抜けて出てきたところを包囲して殲滅する作戦に出た。

 

 

秀吉の大軍が押し寄せて来る前になんとしても勝利を得なければ!


 

これに対し秀吉も右翼、左翼、中央と軍勢を展開し戦に挑んだ。

 

 

こっちもグイグイ押してくよ~!兵力差では負けないっ!!


 

まず、天王山を巡って明智軍の並河易家・松田政近と羽柴軍の羽柴秀長が激しくぶつかり合いった。

 

これに続いて反対側では羽柴軍・池田恒興隊と明智軍・津田信春隊が激突。

 

 

おせおせ~っ!


 

津田隊

 

負けるもんかーっ!


 

両者大奮闘するも、池田隊による猛攻で津田隊はじわじわと後退していく事に…。

 

 

ガンガンいくよ~っ!突撃~っ!


 

この勢いに乗って羽柴軍の中央部隊が前進、隘路を抜け平野に雪崩れ込んで来ると戦況は一気に傾いた。

 

 

ダメだ!この兵力差で真正面から戦って勝てるわけがない!


 

明智軍は羽柴の大軍に飲まれ総崩れとなってしまった。

 

こうなるともう立て直しはきかない。明智軍の兵達は次々と戦場から離脱し、逃亡を開始した。

 

明智光秀も潰走する兵に混じり勝龍寺城へ逃げこんだのだが、あっという間に羽柴軍に城を包囲されてしまった。

 

 

1日で決着ついた!明智はもう逃げられまいて。


 

 

まだだ…!このままで終われないっ!!


 

明智光秀は安土城にいる光秀の娘婿・明智秀満と合流して再起を計るため、夜陰に紛れて勝竜寺を脱出した。

 

明智光秀は京に味方の兵を分散して置いていたのだが、これが光秀がこの山崎の戦で敗北した原因の一つでもあった。

 

ここに割いた兵力を秀吉との戦に集中させていれば、勝敗の行方も違っていたのかもしれないのである。

 

それはさておき、逃走する明智光秀に付き従っていたのはわずか5、6騎だった。

 

必死で逃亡するも、朝方には京の小栗栖(おぐるす)で農民に見つかり、光秀は槍で突かれ間も無く絶命した。

 

享年54歳。

後にその首は秀吉軍に届けられたのだが、なぜか3つも首が届いたうえに顔の区別がつかないほどに腐敗していたので本人の首かは不明だという。

 

しかし、

 

 

羽柴秀吉リーダーのもと、明智光秀を討ちとったぞ~!


 

という名目が欲しいので明智光秀の首と断定したのであった。

 

 

光秀はいなくなったし、その家臣らの守る城も落としたしで一件落着、完全勝利!


 

この山崎の戦いで明智光秀に勝利した羽柴秀吉は、織田家家臣の中でよりいっそう存在感を増した。

 

そしてこの後、織田家の跡継ぎを巡って柴田勝家と対立、賤ヶ岳の戦いへと発展するのである。

 

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