千載一遇のチャンス!秀吉の人生を転機、本能寺の変!
↓本能寺の変が起こるまでの秀吉の歴史はコチラ
1582年の備中高松城攻めで清水宗治が降伏するかしないか、切腹するかしないか・・・と和睦の条件で秀吉と揉めている時、京都では大事件が起きていました。
※清水宗治…毛利方の武将。
明智光秀無謀!織田信長が本能寺にて死去!!
この一報を聞いた秀吉は、毛利の武将達に本能寺の件を内緒にしたまま清水宗治を切腹させ、毛利方と和睦を結びました。
※後で本能寺の事件を知った毛利氏は秀吉を恨んだ。織田信長が亡くなったとあれば毛利氏の出方も変わっていたかもしれない。
一刻も早く信長様の仇をとるのだ!
(こここッッ!これは天下取りの大チャンス!!)
秀吉は戦を終わらせると、明智光秀を討つべく急いで京都へと進軍を開始します。
この素早い行動のおかげで秀吉はわずか五日で岡山~京都の距離を移動し、誰よりも早く明智光秀と戦う事ができました。
この驚異的な速さの大移動は『中国大返し』と言われているよ!
そして『山崎の戦い』と呼ばれる戦で明智光秀に勝利。
信長の仇を討つという大手柄を挙げた秀吉は、織田家家中でよりいっそう権力を増していくのであります。
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なぜ秀吉が明智光秀を討てた?秀吉は幸運に恵まれていた?
なぜ秀吉が明智光秀を討つ事ができたのか??
本能寺の変が起こった時…
秀吉ですが、織田家の有力家臣である柴田勝家や滝川一益、森長可らは地方(北陸や関東方面)に遠征中で本能寺の近くにいませんでした。
信長の仇討ちに向かうのに、距離的にはそんなに大差ない状況です。
秀吉だけが素早く京都へ向かう事ができたのには、たまたま明智光秀の使者を捕らえ、誰よりも早く謀反の一件を知る事ができたという幸運に恵まれたのがひとつ、
そしてその後、毛利と上手く和睦を結んで中国地方の敵の脅威を失くすことができたのがひとつ、
北陸・関東方面の織田家家臣達は本能寺の一件を知るのも遅かったし、現地の敵に攻められたりして信長の仇討ちどころではなかった…
といった理由がありました。
ちなみに秀吉の捕らえた明智光秀の使者は、
信長を倒します。
京を制圧するの、協力してください。
という事を毛利氏に伝える為の使者でした。
もし明智光秀の使者が無事に毛利氏と会っていたなら、秀吉の運命は大きく変わっていた事でしょう…。
ちなみに、信長の頼れる同盟相手である徳川家康は本能寺の変が起こった時、大阪に滞在していました。
(信長に招かれて観光に来ていた)
この時家康はわずかな配下しか連れておらず、明智光秀の伏兵から逃れる為に素早く地元の三河へと逃亡しております。
信長亡き後、徳川家康との戦が勃発!
豊臣秀吉といえば、気になるのが徳川家康との関係!
この二人が戦ったのは、実は一度だけだったりします。
本能寺の変から約2年後…
秀吉が権力を持つのが気に食わない!
このままでは織田家は秀吉に乗っ取られちゃうよ!
家康さん、どうにかしてよ~!助けて~!
よし、秀吉を一緒にやっつけよう!
盟友の頼みだもん、協力するぞ!
信長の次男・信雄が家康を頼ったことで、秀吉VS家康・信雄の『小牧長久手の戦い』が勃発することになります。
一見、織田家の為の戦に思えますが、家康的にも
天下人候補の秀吉と戦う理由ができてラッキー!
これに勝てば、織田家を救った&秀吉に勝った英雄として世に名を轟かす事ができる!
てな感じで良い事だらけだったりします。
豊臣秀吉VS徳川家康!やっぱり秀吉は凄かった!
1584年、小牧長久手の戦いが勃発。
初めは両軍が小牧あたりで対峙していていましたが、秀吉軍の一部が家康の居城を狙ってこっそりと三河へと進軍を開始…
しかし、その動きを察知した家康軍が逆に秀吉軍を長久手で奇襲し、秀吉軍はここで一旦敗走することとなります。
その後またしばらく両軍は対峙することとなるのですが、
家康はやはり野戦に強いな。
勝つのは容易じゃないぞ・・・。
と判断した秀吉が織田信雄に和睦を申し入れ、信雄がそれを受け入れた事でこの戦は終結しました。
秀吉が出した和睦の条件は完全に織田家が秀吉の下につく事になるものでしたが、
もう戦はコリゴリ…。
これ以上秀吉に逆らったらまた秀吉に攻められるし、家康の事も100%信用できたもんじゃない。
との事で、信雄は和睦の条件を飲んだのでした。
(しかも、家康に相談せずに勝手に決めた。家康はあくまで信雄の為に戦をしていたので、秀吉と信雄が仲直りしたら秀吉を攻める理由がなくなってしまう)
秀吉は織田信雄の優柔不断な性格につけこみ、でうまい事丸め込んだということです。
秀吉の凄いところは、戦が不利とみるやすぐに和睦に向けて行動をした事…!
無駄な戦をせずに、織田家をワシの下につける事に成功したのである!
ワシは何も得るものがなかった。
信雄に振り回されただけっていう…。
秀吉と家康の権力争いはひとまずドロー。
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秀吉が家康を臣従させる為にした事とは??
小牧長久手の戦いで織田信雄をうまく丸め込み、完全に織田家をモノにして地位を確立した秀吉…!
しかし、徳川家康とはただ仲直りしただけであります。
※もはや天下人状態だった織田信長の地位をそのままモノにしたわけなので、この時点で秀吉はかなりの権力者。徳川家康は、織田家と同盟関係(織田>徳川といった臣従寄りの)にあったわけで、秀吉に従う義理はない。
この後…
戦には勝てなかった…。
しかし、これを機に家康をワシの支配下に置きたい!
との事で、秀吉はすぐに次なる手を打ちました。
まず、秀吉は家康の次男である於義丸(おぎまる:後の結城秀康)を養子にもらいました。
そして
家康殿~、家族の繋がりもできたことだしワシのところに挨拶に来てよ~!
と自分に頭を下げる事をやんわりと強要。
がしかし、家康はこれを拒否しました。
ダメか。
それなら次はもっと親密な関係を築くしかない!
とのことで、次に秀吉は自分の妹を家康に嫁がせる事にしました。
その妹の名は旭姫(あさひひめ)、この時44歳。
旭姫には佐治日向守(さじひゅうがのかみ)という夫がいて、夫婦仲もとても良かったそうですが…
ワシの天下取りの為だ、別れてくれ。
その代わり、佐治には五万石加増してやるぞ。
と妹夫婦を無理矢理離縁させ、旭姫を家康のもとに送りこみました。
※家康の正室・瀬名姫は亡くなっていた為、旭姫は家康の正室になった。
しかし、
いや、いらんいらん!
頼んでないし!挨拶にも行かないからね?
残念ながら、家康はここでも動きませんでした。
妹でもダメなの?!
こうなったらワシの母親を家康の元へ送るぞ!
秀吉は諦めません。
次に、70歳を越えた母親を家康のもとへ人質として送りつけました。
母親まで送ってこられた…
さすがに秀吉に挨拶しに行くしかないやん(´;ω;`)?
秀吉は、このようにしてやっと家康に頭を下げさせる事ができたのでした。
かなり強引でおしつけがましい、魂胆見え見えのあざとい手段ですが、
ここまでやる?
必死すぎて引くわー
といった周りの目を気にしているようでは、きっと天下は取れないのでしょう。
ちなみに、旭姫と離縁させられた佐治日向守は、
主君の命令は絶対…。
しかし武士としてこれほど情けないことはない…。
と切腹したそうです。
旭姫も家康も望んでない結婚…。
しかもこの結婚では秀吉の思惑通りに事が運ばなかったし、人の命までも奪う結果になったという…。
天下取りの為とはいえ、実の妹にこのような事ができるのは普通では考えられませんね。
(いや、実の妹じゃなくても畜生すぎる。)
織田信長の勢いを引き継ぎ天下人へ!
織田信長は本能寺で亡くなる直前の時点で、日本の中心部分のほぼ全てを手中にしていました。
その勢いは広がるばかりでもはや織田信長の天下待ったなし!といった状況。
小牧長久手の戦いの後、完全に織田家を支配下に置く事ができた秀吉は、その織田信長の築いた勢力をごっそりとモノにする事となります。
秀吉に屈服した全国の大名達
その後、豊臣秀吉が外交によって臣従させたのが、
中国地方の覇者・毛利輝元
北陸の覇者・上杉景勝
東海の覇者・徳川家康
奥州の覇者・伊達政宗
武力行使で臣従させたのが、
四国の覇者・長宗我部元親
九州の覇者・島津義久
武力行使で滅亡させたのが、
関東の覇者・北条氏政
・・・といった感じで全国の大名達を屈服させていったのでした。
北条氏はね、最後の最後までワシに反抗したから22万もの大軍で攻めて滅亡させたの。
本能寺の変が起こったのが1582年、最後の敵・北条氏が滅亡したのが1590年。
豊臣秀吉は8年で完全なる天下統一の偉業を成し遂げたのであります!
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