小西行長の朝鮮出兵!文禄の役の活躍としくじり…そして関ヶ原へ

小西行長の朝鮮出兵!文禄の役の活躍としくじり…そして関ヶ原へ

徳川家康 ラインスタンプ

小西行長の朝鮮出兵!文禄の役の活躍としくじり…そして関ヶ原へ

天下統一を果たした豊臣秀吉…

次なる目標は海を渡った先、明の征服!


 

小西行長はこの壮大な戦の主力となって活躍していくんだけど…ちょっと色々と問題がありすぎた~?

 

今回は戦国時代の歴史の中でも非常~に興味深い、小西行長のやらかしエピソードとその他もろもろをご紹介~!

 

朝鮮出兵までの経緯や小西行長のこれまでのお話はこちら↓

前半記事:キリシタン大名、小西行長ってどんな人?商人出身?逸話や活躍をゆるりと

 

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文禄の役、日本軍は朝鮮の地を調子よく攻略していくも…

 

文禄の役

 

1592年4月…

小西行長・宗義智を主力とした1番隊1万8700が釜山に上陸、早々に朝鮮軍が立て籠もる釜山鎮城を包囲しました。

 

そこで再度日本軍に協力するよう書状を送るのですが、無視されたのでそのまま城攻めを開始、半日もかからず城内の人々を殲滅するという容赦ない戦いっぷりで勝利を飾りました。

 

この後も行長ら1番隊は敵の砦を次々と落としながら北上していき、上陸してから1ヶ月も経たない間に朝鮮の首都・漢城に入りました。

 

 

戦ばっかりやってきた日本の武将は強いからね~。

朝鮮軍はろくに応戦できず、兵士どころか国王まで逃亡する有様だったのよ。


 

そして小西行長の後に続々とやってきた日本軍も無事に漢城へと到達。

 

話し合いの結果、明を攻める前にまずは朝鮮の統治を第一とし、地域を分担してそれぞれで担当地域の支配を固めることが決定されました。

 

朝鮮出兵八道国割

※『道』と漢字があるけど地域区分のこと

 

漢城で武将達が解散した後、小西行長は漢城からさらに北上して平壌という場所に留まるのですが…

 

この前後から朝鮮の李舜臣という武将が水軍を率い、日本軍が占拠していた港を襲撃したり、

 

各地で民衆によるク-デターが頻発したりと朝鮮側の逆襲が始まり、日本軍は若干の苦戦を強いられるようになりました。

 

そしてさらにこのタイミングで明の援軍が朝鮮に入り、平壌にいる小西行長らが襲撃を受けるという事件も起きております。

 

 

2度襲撃されたんだけどね、まぁいずれも撃退してるよね。


 

1592年8月…

この明軍の参戦を受け、武将達は再度漢城に集まって話し合いを行いました。

 

 

明は今後もっと援軍を寄越してくるかもしれないね。

ただでさえ不自由な敵地での戦、マズい展開だよ。


 

 

うむ。

民衆が暴徒化して計画通りに土地の支配もできてないし、これ以上戦線を拡大させるのは危険だ。


 

 

そそ、今は我々の重要拠点である漢城の防衛に努めるべきだね。


 

この時、漢城の防衛を優先すべし…と話がまとまるのですが、

 

 

私は平壌に戻るよ。

平壌での我々の強さに観念したか、明側から「和睦しませんか?」って申し入れがあったしそんなに心配する事はないと思う。

 

戦わずに交渉で明を屈服させるチャンスだし、上手く話まとめてきますわ。


 

小西行長は本来の目的を優先して平壌へ戻りました。

 

小西行長、騙された!敵の本気の反撃、明から大軍がやってくる

 

1592年8月後半…

小西行長は平壌にて明から派遣されてきた沈惟敬(しんいけい)と和睦の交渉を開始しました。

 

 

和睦の条件を明の皇帝に伝えに行って参ります。

戻ったら連絡するので待っててくださいね。


 

とのことで、とりあえず50日間の休戦が結ばれる事となるのですが…

 

 

おっそい。


 

その50日を過ぎても明側から返答はありませんでした。

 

 

まぁ簡単な話ではないし、時間がかかっちゃうのは仕方ない事か…。


 

待ちに待って翌年の1月…

 

 

話が難航してると時間を引き延ばしつつ、実は裏で戦準備を整えていたんだよねぇ。

素直に信じて待っちゃって…ドンマイ日本軍!


 

明・朝鮮連合軍は大軍で平壌城に攻め寄せ、日本軍を攻撃してきました。

 

 

最初から和睦するつもりなんてなく援軍呼びにいってたわけ?!

騙された…!!


 

行長ら日本軍は対応しきれず平壌から逃亡して漢城へ戻り、

 

明・朝鮮連合軍は日本軍を倒すべく、行長同様に漢城へ向かって進軍を開始しました。

 

 

皆ゴメンよ完全にしてやられたよー!

凄い数の援軍がやってきたよー!


 

 

えらいこっちゃでー!


 

 

漢城で籠城して戦おう!


 

 

兵糧に余裕ないし、補給も難しいから籠城はマズイと思います!


 

 

同意!

積極的に迎え撃ってパパッとやっつけよう!


 

敵陣営には盛りに盛って14万ほど軍勢が控えていたという噂であり、結構なピンチを迎えていた日本軍ですが、

 

漢城の北側碧蹄館という地で進み出てきた連合軍を迎え撃ち、見事な連携プレーで勝利を飾り、撃退する事ができました。

※ここで戦っていた敵の兵数は2~3万程度?よくわかってないみたい。

 

 

碧蹄館の戦いに投入された日本軍は4万ほど。

私は平壌から戻ってきたばっかで不参加ですスミマセン。


 

その後、敵は日本軍の強さに戦意喪失したか、再び攻めてくる事はありませんでした。

 

そしてこれ以降は…

 

明軍の将

 

日本軍思いのほか強いなぁ…。

戦うの嫌だなぁ。兵糧不足でお腹もすいたよぅ。


 

 

ここで勝利したとはいえ、明を武力で攻め落とすなんてやっぱ無理あるよね…。


 

明軍は戦に消極的となり、日本軍も深刻な兵糧不足で戦を続けるのがしんどくなってきたので、再び和睦を結ぶべく交渉が始まるのであります。

 

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小西行長と沈惟敬の後ろめたすぎる和睦交渉が始まる

 

1593年4月…

小西行長は石田三成らと共に沈惟敬ら明の使者を連れ、秀吉のいる肥前の名護屋へと戻りました。

 

この和睦の使者は明の武将が独断で遣わしたものであり、明の皇帝の意志はそこになかったのですが、

 

 

丸く事を収めるには、少々都合のいい嘘も必要よ。


 

 

うんうん。


 

ということで、明が下手に出る形で会見が行われました。

 

そんな事情を知らない秀吉は

 

 

明の皇女を日本の天皇の嫁に差し出すこと!

 

明は日本との貿易を復活させること!

 

朝鮮の領土をいくらか日本に譲渡すること!

 

朝鮮の王子を人質としてに日本に差し出すこと!

 

今後朝鮮は日本に逆らわないと誓うこと!


 

といった強気な条件を明側に提示しました。

 

これを明の皇帝に伝えなければいけないわけですが…

 

 

条件エグいて。

いきなり日本からこんなこと言われたら皇帝ブチ切れるだろうなぁ。


 

 

内容いじって報告すればいいよ。

トップ同士が直接やりとりすることはないんだし、私達が黙ってればバレないんだから。


 

 

だね。

こっちでは日本が明に降伏するって事で話進めるわ。


 

もう後には引けないのでこのまま嘘をつき通し、両者ごまかしながら交渉を進めていく事に…。

 

しかもこの後、小西行長は明側にせがまれダメ押しで『関白降表』なる偽の秀吉の降伏文書を作成し、これを家臣に託して明へ派遣しました。

 

そして1594年、行長の家臣が明の帝に謁見。

偽の降伏文書も功を成し、改めて皇帝の返事を伝えに使者が日本に来る事が決定されます。

 

 

やっと明から返事がくるか!

これで和睦は成った!朝鮮での戦も完全に終わりだね♪


 

行長らの裏工作を知らない秀吉は、日本優位で話が進んでいると思っているので大喜び。

朝鮮に在陣してる日本軍の帰国を許可しました。

 

 

色々と大丈夫?

…って思った?


 

 

大丈夫じゃないんだな、コレが。


小西行長は加藤清正と仲が悪かったらしい

 

ところで、小西行長といえば加藤清正と仲が悪いだなんだと噂されております。

 

文禄の役では行長が1番隊で清正が2番隊、主戦派の清正は

 

 

行長が先陣とは気にくわん!

商人上がりが生意気、武功あげまくって俺のが上ってことを見せつけてやるわ。


 

なんてギラつきバチバチしてただろうし、行長が外交重視で戦を進めている事に関しては凄く不満があったようです。

 

それもそのはず、加藤清正は誰よりもやる気満々で朝鮮の地を突き進み、明の国境付近にまで到達していたし、

 

朝鮮の王子を捕虜にするなど素晴らしい手柄をあげ、日本の勝利の為にもの凄く貢献しておりました。

 

行長は平壌を敵に奪い返された挙句、和睦して戦を終わらす方向で話を進めていたので、

 

 

秀吉様は明を制圧しろとの命令を出しているのに、敵に取り入り和睦とはなんという軟弱者!


 

なんて嫌われても仕方ないのかもしれません。

 

 

加藤清正とは後に起こる関ヶ原の戦いでも敵対することになるし、まぁ合わなかったよね。


 

秀吉激怒であわや処刑の大惨事。小西行長らの嘘がついにバレる

 

1596年9月…

沈惟敬ら明の使者と豊臣秀吉が大阪城にて会見を行いました。

 

この会見が始まる前に小西行長は…

 

 

皇帝の書状の内容、ちょっと変えて伝えてね。

秀吉様は明が降伏したと思ってるから。


 

通訳担当の外交僧・西笑承兌

 

なんという無茶ぶり。


 

嘘に嘘を重ねてここまできたので、矛盾がないようここでも文章を偽造するよう西笑承兌(さいしょうしょうたい)にお願いするのですが、

 

西笑承兌

 

『汝を日本の国王に認める』

『貿易の再開はナシで』

 

…とのことです。


 

彼は皇帝の言葉を嘘偽りなく秀吉に伝えました。

 

 

え?ワシの出した条件無視?

てゆうか、なぜ上から目線?

どういうこと?


 

 

(ギャー!!裏切った!!)


 

 

(終わった…。)


 

ここでついに秀吉を騙していた事がバレてしまいます。

 

当然、秀吉は激怒。

和睦の話は白紙となり、再び朝鮮出兵が行われることになります。

 

 

とんでもない不正を行い、さらなる混乱を招いてしまった…。

死罪不可避…。


 

行長は処刑されそうになるのですが、西笑承兌がかばってくれ、さらに

 

 

我々もこの和睦交渉を支持したし、行長殿だけの責任じゃない。


 

石田三成ら奉行衆も秀吉を説得してくれたので、ギリ死罪を免れる事ができたのでした。

 

 

ちなみに沈惟敬は帰国してから処刑されたんだって…。

胸が痛ぃょ…。


 

2度目の朝鮮出兵!慶長の役では素晴らしき武将達に救われた

 

1597年…

8月までに続々と日本軍が朝鮮へと渡海、慶長の役と呼ばれる二度目の戦が行われることになります。

 

 

私は今回も先鋒…

信頼回復できるよう死ぬ気で頑張らねば。


 

2度目の遠征は文禄の役と違って敵の抵抗も強く、そう簡単に進撃できず…

日本軍は厳しい戦いを強いられる事もありました。

 

とはいってもなんやかんやで日本軍は強く、武将達は敵の抵抗をはねのけ各地(文禄の役ほど深く進めていないけど)に拠点を置いておりました。

 

しかし、1598年9月…

豊臣秀吉が死去したことにより朝鮮出兵は中止となり、日本軍は撤退することが決まります。

 

武将達は帰国に向けて続々と釜山ら辺に集結するのですが、この時、順天城に滞在していた小西行長は敵に包囲されており脱出する事が困難な状況にありました。

 

 

和睦しようって言ってきたのに襲ってきたし、その後も解放してあげるって言ってくれたのにしてくれなかったの!

嘘ばっかりついて!プンプン!


 

小西行長がこんな事になっちゃってるのを知った武将達の中には

 

 

仕方ないから置いて帰るしかないでしょ。


 

なんて冷たい事を言う人もいたみたいですが…

 

 

見捨てるものか!

義を重んじてこそ日本の侍!


 

 

同意。

助けに行くでごわす。


 

宗義智、立花宗茂、島津義弘らが出動し、明・朝鮮連合軍の水軍を蹴散らしてくれたおかげで行長は無事に撤退することができました。

 

 

『露梁海戦』と呼ばれるこの戦、日本軍は結構なダメージを喰らったみたい。

大変な思いをしてまで助けてくれたみんなに大感謝…。


 

日本軍の撤退により朝鮮出兵は終結したわけですが、この戦は双方得るもの無くただただ遺恨を残したのみでありました。

 

小西行長の最期…関ヶ原の戦いで敗北して処刑されてしまう

 

豊臣秀吉の死後は豊臣家内で仲間割れが起き、こじれにこじれて1600年に『関ヶ原の戦い』と呼ばれる戦が起こる事になります。

 

関ヶ原の戦いといえば石田三成率いる西軍、徳川家康率いる東軍のバトルで有名なわけですが、

 

小西行長はというと、西軍に属しております。

 

ちなみに戦が起こる前、行長は宣教師に

 

 

家康が亡き秀吉様の意志を守って政を代行している、という限りはこれに従うけど…

もしも徳川で政権樹立を図るつもりであるのだとすれば、私はこれと戦うつもりだ。


 

なんて書状を送っていたそうな。

 

関ヶ原の戦い

小西行長は左の真ん中らへんに布陣。

 

行長は関ヶ原の戦い当日、4000の兵をもって参戦。

 

…するのですが、勝利したのは徳川家康率いる東軍でありました。

 

敗北を悟った西軍武将は各自必死で戦場から撤退を開始し、小西行長もひとまず山中に逃れるのですが…

 

 

西軍の主要人物の一人である私は追及から逃れる事はできない。

敗軍の将として、運命のまま最後を迎える事にするよ。


 

行長は出頭する形で捕らえられ斬首の刑に処され、生涯を終えたのであります。

 

死を覚悟したにも関わらず、潔く切腹して散れなかったのはキリシタンは自害を禁止されているという事が大きな理由であったと思われます。

 

 

ちなみに関ヶ原の戦いで処刑されたのは私と石田三成と安国寺恵瓊の3人だけ。

大名としての小西家も滅亡しちゃったんだ。


 

 

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