丹羽長秀とは?信長からの信頼抜群、柴田勝家に次ぐ織田家家臣!
生涯 | 1535年~1585年 |
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出身 | 尾張(愛知県) |
全盛期 | 若狭、越前、加賀(半分)約123万石 |
主君 | 織田信長、羽柴秀吉 |
有名な親族 | 丹羽長重(嫡男)、藤堂高吉(三男・養父藤堂高虎) |
思い出の戦 | 稲生の戦い、桶狭間の戦い、姉川の戦い、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなど |
丹羽長秀といえば | 米五郎左、織田の双璧、病巣(寄生虫)を討った |
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織田信長の家臣、丹羽長秀をゆるりとわかりやすく解説
丹羽長秀は戦働きというよりかは行政面で重用されていた方!
『アイツ気に食わないぜ!倒す!』みたいなギラついた所がないっぽいので、荒波たてず真面目にやってきた印象のお方ね。
信長裏切った光秀、天下取った秀吉…みたいなインパクトや面白エピソードなんかは特にないかもしれないけど、ゆるりと見てってね~ん。
米、丹羽長秀。信長に信頼され秀吉に尊敬された有能武将
丹羽長秀といえば米五郎左と言われている事で有名です。
※長秀の通称が五郎左衛門
織田信長の家臣の個性&有能っぷりを現すのに木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間なんて謳われているのですが、米に例えられた長秀については
何にでも合うお米は毎日の食事に欠かせないもの。
あって当然、丹羽長秀という男は織田家にとってのお米なのである。
といった意味での賞賛だそうで、これだけでも高い評価をされていた人物であることがうかがえます。
そう、丹羽長秀は目立つ人物ではないけれど、織田家に必要不可欠な有能な家臣であったのであります。
柴田勝家と並んで織田家の双璧なんて謳われていた織田家の重鎮中の重鎮でもあったし、織田信長からは

友であり兄弟!
と言われていたほど信頼されておりました。

あ、並んでといってもワシが織田家の筆頭家老だからね?
そこんとこ勘違いしないでね?
長秀さんはワシの次です、ワシが織田家で一番の家臣です。
ついでに丹羽長秀の正室は信長の養女(信長の兄・信広の娘)、長秀の嫡男の正室は信長の娘。
非常に織田家と縁が深いという…。

親子揃って信長様の身内と婚姻関係を結んでるのは丹羽家ぐらいなもんで。
これはかなり信頼されてるって事だよね。
長秀のことを評価していたのは信長だけではありません。
長秀は仕事もできるし温厚にして人格者だったということで、周囲の人々からも慕われていたとのことです。
あの天下取った豊臣秀吉も丹羽長秀の事をリスペクトしており、『丹羽』の『羽』の字を自分の名字に取り入れたんだとか。

そそ、羽柴秀吉って名乗ってたんだよねぇ。
丹羽長秀の歴史をザーッと。織田家時代の活躍とは
丹羽氏はもともと尾張守護・斯波氏に仕えていたのですが、
戦国時代の波にのまれて斯波氏が失墜、その後台頭してきた織田氏に仕えるようになったとのことです。
長秀自身が信長の家臣となったのは1550年。
1556年に起こった稲生の戦い(信長とその弟・信行の家督争いから勃発した戦)でももちろん信長の味方についておりました。

柴田勝家なんかも早くから信長に仕えているけど、最初は信行の味方だったからね。
私の方が信長様と付き合い長いんだよ~。
そして1560年、織田信長が今川義元に勝利したことで有名な桶狭間の戦いにも参加。
その後は美濃での戦で武功をあげたのを皮切りに長秀は頭角を現していく…!

詳しいエピソードがない。泣
1571年、近江の佐和山城城主・磯野員昌が信長に降伏し、城を明け渡すと丹羽長秀が佐和山城城主に任命されました。
1573年、一乗谷城の戦いと呼ばれる戦で織田信長が越前・若狭で力を持っていた大名・朝倉義景に勝利。
戦に敗れ追い込まれた朝倉義景は自害するのですが、その後、捕らえた義景の妻や子供を処刑したのが丹羽長秀でした。
そして朝倉氏滅亡後に長秀は若狭一国を与えられます。
順調に出世しております。
エピソードに欠けるのでいまいち長秀の凄さが伝わってきませんが、織田家家臣団で初めて国持ち大名となったのが丹羽長秀なのでそりゃもう、これまでの戦で相当活躍していたに違いないでしょう。(適当
他にも姉川の戦い、比叡山戦の焼き討ち、越前一向一揆参戦、伊勢長島一向一揆、長篠の戦い、有岡城の戦い、三木城の戦い…などなど、多くの戦に参加しております。

織田家に優秀な武将達が増えてくると、ワシは後方支援に回る事が多くなってね。
どうしても目立った戦場エピソードがナイわけですよ…。
そして丹羽長秀といえば土木工事の指揮をとらせたら右に出るものはいなかったとのことで、あの有名な安土城の普請奉行(工事の最高責任者)を務めておりました。

これって凄い名誉な事なのよ~。
その他、1581年に開催された京都御馬揃え(信長が開催した大規模な軍事パレード)では一番に入場するという超好待遇を与えられていたとのことです。

ドヤらずにはいられない。
織田家時代のワシ、輝きまくっている!
柴田勝家にゴメンして…丹羽長秀、清須会議では秀吉の肩を持つ
1582年、長秀と同じ織田家家臣である明智光秀が織田信長を裏切って死に追いやるという大事件が勃発。
そう、言わずと知れた本能寺の変です。
この時、丹羽長秀は織田信孝(信長の三男)を大将とする四国征伐組の副将となっており、大阪で四国へ行く準備をしている最中でした。
本能寺での一件を聞いた長秀は…

信長様が亡くなったとなれば四国遠征どころじゃないよ…。
え…てか…ワシらのチームに光秀の身内がおる…。
まず、同じ四国征伐組で大阪城に滞在していた津田信澄を殺害しました。
津田信澄の妻が明智光秀の娘だったのです。
津田信澄は四国征伐で丹羽長秀と一緒に副将を務めていたし、徳川家康が大阪に来た時も接待役を一緒に命じられておりました。
長秀にとっては可愛い後輩だったかもしれません。
明智光秀の共謀者という噂が出てきてしまったので、やむなく織田信孝と共に殺害に踏み切ったとのことです。

状況が状況だから、当然といえば当然…。かな。
その後は

みんなで信長様の仇、討とうぜ!!いざ出陣~!
と中国地方からカムバックしてきた羽柴秀吉に仲間入りし、山崎の戦いに参加しました。
山崎の戦いにおいては

丹羽先輩、もしくは信孝様!
この戦の総大将お願いしていいっすか!?
と秀吉から総大将に推されたみたいですが、

いやいや、君がやるべきだ。
織田信孝
うんうん。
逆に2人が秀吉を推したそうな。
ここ大一番の戦でもちゃんと目上の人を立てる秀吉、流石ですね。

立場上、一応聞いといた方がいいってのもあったと思うけどね。
あともちろん、この山崎の戦いは我々が勝利しているぞ。
そしてその後、丹羽長秀は

信長様の後継ぎだった信忠様の子、三法師様が織田家の当主となるべき!

三法師様まだ3歳じゃろがぃ!
次の織田家当主は信孝様!
と揉めに揉めた清須会議で秀吉の意見を支持し、柴田勝家の説得にあたりました。
結果、三法師が織田家当主に決定。
しかしながら、清須会議の後も羽柴秀吉と柴田勝家の仲は険悪であり、、
そしてこじれにこじれた結果、1583年に賤ヶ岳の戦いと呼ばれる戦が起こります。
丹羽長秀はこれに羽柴軍の一員として参戦。
長秀はこの戦で、羽柴軍が敵の佐久間盛政の攻撃を受けピンチに陥っているところを見て

助けなきゃ!
ダメです!危険です!

ええいっ!
義を汚してはならぬのじゃ~(´Д`)!!
と、部下の制止を振り切り、琵琶湖を渡って救援に駆け付けて羽柴軍を救ったそうな。
どことなく地味めな印象の丹羽長秀だけど、戦場でのカッコイイ逸話がちゃんとある…!
そして賤ヶ岳の戦いは羽柴軍の勝利で終わり、柴田勝家は自害してこの世を去るのですが、
その後、長秀は越前・若狭・加賀半国(柴田勝家の旧領)をメインに与えられ、123万石の大大名になりました。

だがしかし、この栄光はそう長く続かなかったのである…。
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病?寄生虫?秀吉への当てつけ?丹羽長秀、最後はまさかの自害
めでたく123万石の大名になった丹羽長秀…
大出世したのはいいけども、長秀は気づけば秀吉を支えるポジションについておりました。

当主の三法師様はまだ子供。
織田家の当主なんていていないようなもんだよ…。
あくまで長秀は織田家家臣。織田家一筋でやってきたゴリゴリの織田家家臣です。
妻も織田家の人間ですし。
忠義は織田家にあり、これからも織田家の為に尽くしていくはずだった。
のに、その織田家は秀吉の下に置かれている状態。
周囲に敵を作らないような性格だったという長秀だけど、後輩の秀吉に従う形になってしまったのは複雑だったろうに、不満も沢山あったことでしょう。
これは私の推測にすぎないけど丹羽長秀はあまり気が強くなく、思ったこと口に出せないタイプだったのではないでしょうか。

最近の秀吉の行動は目に余るもんがある。
織田家を立てていかなきゃダメだよ。
なんて注意できる性格じゃなく、できるだけ荒波立てずに生きていきたい人だったのではないかと思います。

いやいや、こうなったのも秀吉が凄いからよ。
彼の才能を認めたうえで、ワシは自分のやりたいようにやってるの。
ってパターンだった可能性もあるけども。
なにはともあれ長秀は、越前の北ノ庄城に入ってからは

病気なので。
と理由をつけて秀吉の呼び出しにあまり応じなくなりました。
実際、越前に移ってから長秀は酒の量も増え胃を悪くしていたんだとか。
やはり、真面目そうな人だから結構ストレス溜めちゃってたのかも??
そして長秀がこんなつれない態度をとっていたものだから、秀吉の周辺では
丹羽先輩、秀吉様の呼び出し拒否したりして…。
なんか反抗的だよね~。
まさか謀反とか起こしちゃったり?!
ヤダー!
なんて良くない噂が立ち始めてしまいました。
秀吉はこんな現状を不安に思い、

ワシが長秀殿をめっちゃ頼りにしてるのはご存じのはず!
これからの天下をワシは長秀殿と一緒に治めていきたいです。
どうかこっちへ来て、ワシの相談相手になってくだされ~。
と手紙を送りました。
しかし、

体調が悪いので。
長秀は態度を変えず。
というか、病気だから本当に仕方ない部分があったと思われます。
日に日に病状は悪化し、最終的には胃に大きな腫瘍ができてしまったとのことです。
※寄生虫が原因の病だったとの説もある。
そして…

病気であろうが自分を害するものは敵。
敵ならば討つしかあるまいて。
長秀は自分で腹を裂いて腫瘍を取り出すという行動に出て自らの命を絶ったのでした。

腹から取り出したやつ、秀吉に送ってね。
といった事を遺言に残してたらしく、取り出した腫瘍は秀吉のもとへと届けられたという…。
戦国武将の逸話として読むと面白いけど、実際全然笑えないし相当クレイジー!

病気による痛みに耐えかねて腹を切ったとも言われているし、秀吉へのあてつけで命を絶ったとも言われているぞ。
わざわざ取り出した腫瘍を送り付けるあたり、あてつけかもしれんね。
なんにせよ切腹自体がとてつもなく苦痛だと思うのですが…
さらに臓物やらを触って自分で腫瘍を取り出すって可能なんでしょうか…。
ここまでくると痛いとかいう感覚じゃないのかもしれませんね。怖い怖い。
丹羽長秀、寄生虫が原因で亡くなったパターンの逸話はこんな感じ
腹の痛みに苦しんだ長秀は…

虫なんかに殺されてたまるかー!!
と病の元である寄生虫を倒すべく腹に短刀を突き刺した、といったパターンの逸話もある。
長秀はこの二日後に亡くなったそうな。
亡くなった後も腹にいた寄生虫は生きていきたとかなんとか…。
おまけ、丹羽長秀の後を継いだ長重の人生がジェットコースター
丹羽長秀亡き後、丹羽家は嫡男の長重(ながしげ)が継ぎました。
が、その後、長重の家臣が佐々成政(秀吉と敵対していた)と通じていたと疑いをかけられて、長重は若狭一国15万石に減封されてしまいます。
そしてさらに、1587年の九州征伐の際にまた家臣が問題を起こしたとして若狭を没収され、加賀に4万石を領するのみとなりました。
が、1590年の小田原攻め(秀吉VS北条氏)で功をあげて12万石にアップ。
秀吉の死後は徳川家康寄りになるも、1600年に起こった関ヶ原の戦いで家康の敵側である西軍に味方して改易されてしまいます。
しかしその3年後、常陸に1万石を与えられ大名に復帰。
その後は大坂の陣に参戦し、その活躍が認められ徳川秀忠将軍の御伽衆に抜擢されました。
最終的には陸奥に10万石を領する大名になったというわけで、なんやかんやで丹羽家は戦国時代を無事に生き抜いたのでした。

123万石から0になって…からの復活は凄いね~。
ワシより息子のが波乱万丈な人生かも。
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