石田三成絶対殺すマンこと細川忠興!天下一短気な男の人生とは
文武両道として名高い細川忠興!
父・幽斎と共に織田家、豊臣家、徳川家…と時の天下人に仕えた戦国武将ね~。
細川忠興といえば『天下一短気』と言われるくらい気性が荒くてキレるとヤバい性格の持ち主!
そしてなんたって妻・ガラシャとのエピソードが有名!
けど今回は夫婦のエピソードは置いといて、細川忠興の人生の軌跡をゆるりとご紹介~。
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名門の出、天下人に貢献してきた細川忠興
細川忠興は足利将軍家に仕える細川幽斎の長男。
京都出身、名門のお家の子であります。
1573年、尾張の織田信長が上洛して将軍・足利義昭を京から追放するのですが、父・幽斎はこの時に信長に臣従し、織田家家臣となりました。
この頃、私は数え年で10歳。
幼い頃から利発な子であったとの評判。
その後、忠興は織田信長の小姓からスタートして織田家、豊臣家、徳川家…と時の天下人に仕える事になります。
細川忠興も父・幽斎に負けない一流文化人!
細川忠興の父・幽斎は和歌、書画、茶の湯などに精通した一流の文化人でありました。
忠興はというと、若い頃は武辺一筋、和歌や茶道といった文芸に興味を示さなかったといいます。
父・幽斎から
少しは歌を習ってみなさい。
と進められた事で和歌などを習いはじめたとのことですが、最初のうちは
私みたいな初心者が歌を始めたとて、父の名を汚すだけでしょう。
とノリ気じゃなかった模様。
そんな忠興に父・幽斎は
ワシの歌道はお前ごときが汚せるものではない。
と返答したそうな。
さすが、和歌のプロフェショナル…!
父親の話はさておき、細川忠興は利休七哲の一人に数えられる茶の湯のプロフェッショナルでありました。
※利休七哲…千利休が認める弟子七人衆。
どのくらいプロっていたのかというと、極めに極めて『三斎流』なる茶の湯の流派を興したほど。
千利休の覚えも良く、名物の茶器も多数所持していたとのことです。
武勇に関しても自信あるし、文武両道でいい感じ~!
織田家家臣として順調に駆け出して行った忠興…
細川忠興の初陣は15歳。
1577年の紀州征伐に参加し、雑賀衆の一揆討伐にあたりました。
そしてこの数か月後、織田家を裏切った松永久秀を成敗する為の戦に参加。
父・幽斎や明智光秀と共に大和の片岡城を攻め、これを落城させました。
忠興は戦デビューにもかかわらず、先頭きって大活躍したとのこと。
その後…
初陣でさっそく、攻撃食らって額に傷作っちゃった。
よく頑張ったね。
その額の傷も名誉の傷だよ!信長感激!
忠興の活躍を嬉しく思った織田信長は、直筆の感状を忠興に贈ったのでした。
そしてこの約1年後、忠興は織田信長の仲介で明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)を妻に迎えました。
細川忠興とガラシャは同世代、そして二人とも美形で見目麗しい夫婦であったとのことです。
織田信長は目出度く夫婦となった二人を見て
可愛い夫婦~
お人形さんみたい(´∀`o)
とほんわかしたそうな。
しかし、ほんわかも束の間…!
細川忠興は後々、狂気の愛妻家となって現代で『メンヘラ武将』といじられるほどヤバイエピソードを生む事になるのであります。
父の出世、幸先良し。…と思いきや義父が本能寺で謀反
1580年…、
これまでの働きが認められ、父・細川幽斎は丹後の宮津城に12万石を与えられました。
幽斎・忠興親子は信長に礼を尽くしに安土に参上するのですが、その際、忠興は
丹後は父親ではなく、お前にやる。
と信長に言われ、感激のあまり涙を流したといいます。
実際、領地を治めるのは父だからリップサービスだけど…。
信長様に認められてるって事だよね(;u;`)
こんな感じで信長に可愛がられ、将来を有望されていた細川忠興ですが…
1582年6月、義父の明智光秀が織田信長を殺害するという大事件が起こります。
大恩ある信長様が亡くなったうえ、愛する妻が『犯罪者の娘』になってしまった…。
信長の死も衝撃的ですが、犯人が自分の妻の親父というのも衝撃的!
忠興に天下を見せたくてやった事なんだよ。
この一連の戦でゲットした領地もお前のものさ。
協力ヨロシク。
こんな書状が送られてきたけど、細川忠興(と幽斎)は明智光秀の誘いを無視してガラシャを幽閉。
我々は明智光秀の謀反には関わっていません。
のスタンスを貫き、明智光秀を討つべく挙兵した羽柴秀吉を支持する意向を示しました。
この後起こった羽柴軍VS明智軍の『山崎の戦い』には参加してないけどね。
ちなみに、この本能寺の変をきっかけに父・幽斎は隠居。
忠興は家督を相続し、丹後の宮津城城主となりました。
細川忠興、妹に殺害されかける
本能寺の騒動が落ち着いてすぐのこと…、
細川忠興は本能寺の変で明智光秀の味方についた一色義定を、宮津城で謀殺しました。
そしてその後、残る一族を殲滅して一色氏を滅亡させてしまいます。
一色氏は北丹後の大名だよ。
私は南丹後の大名、めでたく丹後一国を平定したのさっ。
明智光秀に味方していた一色氏なので、秀吉の政権下にある武将の行動としては間違っちゃいないのですが、
細川忠興の妹が一色義定の妻だったので、忠興は妹から凄まじく恨まれることに。
後に忠興は実家へ戻っていた妹と再開するのですが、妹に刃物で殺害されかけたという…。
突きつけられた刃物を間一髪で交わして命拾いしたものの、忠興は顔を斬りつけられて鼻に一文字の傷が残ってしまったんだとか。
さすが私の妹、怒ると怖い。
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豊臣政権下でも大活躍!忠興は秀吉の信頼厚い家臣になっていた
本能寺の変後、明智光秀を討った羽柴秀吉は織田家内で覇権を握り、メキメキ頭角を現していきました。
次の天下は秀吉かな?
細川忠興は早い段階で秀吉に接近し、その後は豊臣家家臣となり小牧長久手の戦い、九州征伐、北条小田原攻め、朝鮮出兵などの戦に参加しております。
そんなに戦場での詳しいエピソードはないみたいですが、小牧長久手の戦いのでは織田信雄の軍勢を撃退し、文禄の役では晋州城を攻略する活躍をしたとのことです。
数々の戦に参戦して武功をあげた忠興は、秀吉から豊臣の姓を与えられるほど信頼を得、政権下で安定した地位を築きました。
加藤清正や福島正則らと共に、豊臣家の武闘派武将として活躍していたのだよ。
細川忠興、三成憎しの感情で関ヶ原では大奮闘
豊臣秀吉の死後はアンチ石田三成派として行動を開始。
細川忠興は俗に言う『武断派』であり、1599年3月には加藤清正や福島正則と共に石田三成の屋敷を襲撃し、石田三成の殺害を試みています。
逃げられて未遂に終わったんだけどね。
そして1600年に入ると徳川家康、石田三成らをとりまく情勢が悪化、関ヶ原の戦いへのカウントダウンが始まっていきます。
家康と三成、両者それぞれ大名達とコンタクトを取り、身の回りを固めていく中…
武将達の身内を人質にとる!
こちらの味方を増やすのだ。
石田三成は人質作戦を決行。
大坂の屋敷にいた忠興の妻・ガラシャも狙われてしまいました。
この時、細川忠興は家康に従って上杉征伐へ出かけていたので、自分ではどうすることもできない状況。
忠興は常々、
私が不在の時、妻の名誉に危険が生じる事があれば妻を殺せ。
で、付き従ってる者は皆腹を切って妻に殉じてくれ。
それが武家の習いだから。
こう家臣らに命じておりました。
ので、ガラシャは人質になることを拒否して石田三成の襲撃を受けた際、自ら死を選んでこの世を去りました。
(キリシタンだから自害できず家臣に手討ちにさせたとも、キリシタンの教えに背いて自害したとも。)
この後、石田三成の挙兵で上杉征伐は中止となり忠興は関ヶ原の地へ引き返すのですが…
妻が死んだ…?!
ガラシャの死を聞いて愕然。
何かあったら死んでくれと言ってはいたが、三成があんな事をしなければ妻は死なずにすんだのに…。
忠興が嘆き悲しみ、怒りに震えたのはいわずもがな。
関ヶ原の戦いでは
石田三成、絶対殺す!!
凄まじい憎悪を抱いて出陣。
およそ5000の兵を率い、先陣に立ちました。
そして戦が始めると石田三成の本陣めがけて突撃。
激闘を繰り広げた結果、細川軍は136の首級をあげたのであります。
石田三成を取り逃がしたものの、大健闘!
細川忠興は関ヶ原の戦い後、豊前小倉39万石に加増されたのでした。
細川忠興は黒田長政が嫌い。
細川忠興が入領する前、豊前は黒田長政が治めておりました。
(黒田長政は豊前から筑前に国替え。)
二人は石田三成襲撃事件でも協力していたし、これからも同じ九州メンバーとして仲良くしなくちゃいけないのですが、
とある事件が原因で犬猿の仲となってしまいます。
黒田長政が国替えの際、豊前で年貢を取り立ててから筑前に移っていったのです。
マナー違反だぞ!
これでは当分、豊前の民は我らに年貢を払えない!
しばらくの間収入ねぇじゃねーか!
細川忠興は多大なる迷惑を被ることに。
なんとかしてくれと徳川家康に訴え出るも…
ちょっと今忙しい。
そっちで勝手に話つけて。
こう言われ相手にしてもらえず。
言われたとおり好きにやらせてもらいますぅ。
気が収まらない細川忠興は黒田の船を襲撃し、武力行使で年貢の奪還に乗り出しました。
おいおいふざけんじゃねぇよ。
やんぞコラ!戦じゃ戦!!
関ヶ原の戦いが終わったばかりだというのに、なにやらまた戦が始まりそうな予感。
こうなってやっと徳川家康も動いてくれたので…
戦、ダメ!
長政、年貢返してあげて。
ハイ…。
分割でお願いいたします…。
戦は回避され、忠興は年貢を返してもらえることになりました。
しかしこの一件で相当ご立腹した忠興は
黒田の奴らとだけは仲良くするなよ。
と家臣に言いつけるほど、黒田長政を嫌い続けたそうな。
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細川忠興が最後に思うことは…
細川忠興は戦国時代最後の戦となった『大坂夏の陣』にも参加。
それから約5年後の1620年、三男・忠利に家督を譲って隠居しました。
出家して『三斎』って名乗ったよ。
その後の細川家は徳川政権下でも安定したポジションを築き、1632年には肥後熊本54万石に加増されました。
細川忠興はというと、晩年は文化人として穏やかに過ごしたとの事。
そして1646年に83歳で死去、とっても長生き!
忠興が臨終の際に残した言葉は
皆どもが忠義 戦場が恋しきぞ…
だったと言われております。
平和な時代が続く中、最後に思い出すのは戦場ってカッコイイですね。
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