傾奇者!前田慶次って何者?何をして評価された人?!
『強くてカッコイイ傾奇者』ってイメージの前田慶次!
だけど史実では謎が多すぎるあまり、本当は実在してなかったんじゃないの?なんて言われるぐらい不思議な武将だったのよ~!
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謎が多い&奇妙な生い立ちの前田慶次
前田慶次の出自については謎が多く、生まれ年は1532年?~1541年?…と諸説アリ。
そして父親についても不明な点が多いようですが、滝川一益の甥・益氏(ますうじ)が実の父であるというのが一番メジャーな説であります。
※滝川一益(たきがわかずます)…織田信長の家臣。
とはいっても、父・滝川益氏は慶次が生まれる前に戦死…。
残された益氏の妻は身ごもったまま尾張・荒子城主の前田利久(としひさ)と再婚、後に慶次を出産したとの事です。
慶次は前田利久の養子という事になるけど、感覚的には実の親子のようなものだね。
血筋は滝川一族の人間だけど生まれた時には前田家、なかなかに奇妙な生い立ち…!
そして前田慶次の歴史については本当に資料が乏しく、若かりし頃どんな活躍をしていたのか?どの戦に参戦していたのか?なんて事はわかっていないそうです。
現代では知名度抜群の人気武将だけど、その実態は謎だらけなのだ。
信長の理不尽な仕打ち…前田家当主になりそこねた前田慶次
戦国時代の前田家といえば、なんといっても加賀百万石の礎を築いた前田利家!
・・・なのですが、前田家はもともと慶次の義父・前田利久が当主を務めておりました。
前田利家は俺の義父・利久の弟なのだ。
利家は俺の義理の叔父…なのである。
前田利久は織田家家臣・林秀貞の与力にある立場で、この時の前田家は尾張の荒子村という小さな土地を治める存在に過ぎませんでした。
そんな前田家をビッグな存在へと成長させるきっかけを作ったのが前田利家です。
14歳で信長の小姓勤めをしていた前田利家は、信長に気に入られ衆道関係を持ち、さらに戦場での槍働きでメキメキと頭角を現していきました。
利家の事をかなり買っていた信長は、1569年に
利家を前田家の当主とする!
利久は家督を利家に譲って荒子城から出ていってくれ。
と強引に前田家を利家のものとしました。
信長が利家を取り立てたい気持ちはわかりますが、跡継ぎを勝手に決められるのはさすがに身勝手な事…。
しかし、権力右肩上がりの織田信長に逆らう事などできず、前田利久はこの命令に従うしかありませんでした。
なんとも理不尽な話ですが、利久とその家族は城を追われ流浪の生活を送る事になってしまったのであります。
義父には俺以外に男子がいなかったから、何事もなければ俺が前田家の家督を継ぐはずだったんだよなぁ…。
前田慶次親子は荒子城を去った後、滝川一益を頼って伊勢へ行ったとか、京で暮らしていたとか色々な説があるみたいです。
前田慶次が当主となっていたら、前田家はどうなっていたのか気になるところであります。
前田家がビッグになれたのは利家の槍働きあってこそだからねぇ。
前田慶次、流浪の生活を経て前田家に復活!
前田慶次が荒子城を追われてから14年後の1583年、前田利家は能登と加賀二郡を領する大名に出世していました。
前田慶次はというと、詳しい時期はこれまた謎のようですが、この頃までに前田家に戻り利家の家臣として5000石を与えられていたといいます。
父・利久も一緒に前田家に戻っているぞ!
かつて、前田慶次親子を城から追い出したのは織田信長。
前田利家が望んで慶次親子を追いやったわけではないので、慶次親子の前田家復帰は利家からするとありがたいものであったかもしれませんね。
そして復帰してからは数々の戦に参戦した模様。
1584年、前田の支城・末森城が越中の佐々成政軍に攻められた時には、前田利家と共に救援に向かい、末森城の兵士と連携して敵兵を挟み撃ちにしたといいます。
翌年には能登・阿尾城を攻略し、阿尾城城代に任命されました。
1590年には北条小田原攻めにも参加したとの事ですが、この後、前田利家と仲違いして前田家を出奔。
慶次はしばらくの間、また浪人生活を送る事となりました。
この間、慶次は京都に仮住まいをし、沢山の文化人との交流を楽しんだり和歌などに興じたり…と風流な暮らしをしていたと言われております。
この自由気ままな感じが『前田慶次』って感じだね♪
前田家から上杉家へ。長谷堂の戦いでは直江兼続を勇気づけた
慶次が前田家を出奔した時点で50~60歳と結構な高齢。
そのまま武士を引退してもいい年頃ですが、慶次はこの後、上杉景勝に仕える事になります。
これまたどういった経緯でそうなったのかは謎なようですが、1598年頃には上杉家に仕官していたようです。
上杉家では1000石の知行を与えられていたと記録が残っているぞ!
そして前田慶次の上杉家時代の活躍といえば『長谷堂城の戦い』であります。
1600年…関ヶ原の地で石田三成と徳川家康が争っている間、東北では上杉景勝(三成側)と最上義光(家康側)が戦をしておりました。
上杉軍の総大将は直江兼続。前田慶次はこれに従い、最上義光の支城である長谷堂城攻めに参加しています。
当主の景勝は会津でお留守番。
この長谷堂城攻めは上杉軍1万8000に対し、籠城側は1000人という圧倒的な兵力差がありました。
にもかかわらず、籠城側の奮戦により上杉軍は苦戦を強いられる事に・・・。
こっちは大軍なのに城が落ちない…
困ったなぁ…。
なんて思っている時に衝撃的な一報が兼続の元に舞い込んできます。
石田三成が関ヶ原で敗北したらしい!
急いで帰ってきて!
直江兼続は城攻めを中断して自領の米沢目指して撤退を開始するのですが、これをチャンスとみた最上軍は勢いを盛り返し、容赦なく追撃を開始しました。
そしてそこに伊達政宗の援軍も合流、あまりの窮地に直江兼続は
もはやこれまでか。
敵に首を取られる前に腹を切るぞ…!
と自刃を決意するのですが、これを諫めたのが前田慶次だったといいます。
大将がそんな弱気でどうする!
この前田慶次が敵の抑えとなりましょうぞ!
なんて事を言ったかはわかりませんが、きっとこの時の慶次の一言が上杉と直江兼続の未来を救ったに違いない…!
この撤退戦は総大将の兼続が殿を務めるなど、凄まじい戦であったぞ。
多くの死傷者がでてしまったけど、無事に米沢城に帰還できたのだ。
晩年はおだやか~に過ごしていた前田慶次
関ヶ原の戦いの後、徳川家康の戦後処理により上杉家は会津120万石から米沢30万石へと転落。
前田慶次もそれに従い、上杉家の治める米沢に移り住む事になります。
晩年は米沢の堂森という地に居をかまえ、文芸に興じたり人々と交流を楽しんだり…と穏やかな晩年を過ごしていたと伝えられております。
邸宅は『無苦庵』と名付けたぞ。
文字通り、苦しみのない平和な日々を過ごしていたのだ。
※この『無苦庵』は現存せず。どこにあったのかもわかっていないらしい。
没年については
前田家の資料・・・1605年に大和で死去。享年73
上杉家の資料・・・1612年に米沢で死去。享年70
と、諸説あるようです。
最後まで謎が多いね~!
実在はしたろうが史実はそんなに凄くないかもしれない前田慶次
前田家にいた頃は5000石、上杉家では1000石を与えられていた前田慶次・・・。
今でこそ知名度抜群の人気武将ですが、実はそんなに大身の武将ではなかったんですね。
漫画『花の慶次』では伊達政宗や直江兼続、石田三成らを圧倒するカリスマ性を放っていますが、
伊達政宗・・・約110万石
直江兼続・・・30万石
石田三成・・・19万4000石
※それぞれ全盛期の所領
実は彼らの足元には到底及ばない身分だったのであります。
名だたる大名達と肩を並べるには恐れ多い…。
前田慶次は何をして評価されたのか?と聞かれても資料少なすぎてよくわかってないし、『前田慶次は強い!最強!』というイメージを裏付けるような詳しいエピソードは残っていないという…。
そう、前田慶次は一流文化人であるという事以外は正直何が凄いのかよくわかっていない武将。
しかし、少ないながらも後世に伝えられる
古典や和歌を愛する教養人
槍術に長けていた
『心たくましい猛将』『世にかくれなき勇士』と評価されている
イタズラ好きでトンチの利いた面白い武将
といった記録や逸話などを元にして作られた漫画『花の慶次』が超面白い&慶次がめっちゃ強くてカッコイイ!と大ヒット。
これによってあまり注目される事のなかった前田慶次の知名度は上がり、その後も色々な所でメディア化されて人気武将の仲間入りを果たしたわけであります。
前田慶次が『凄い武将』というイメージがあるのは、『花の慶次』の影響がでかいのだ。
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サイト管理人のゴリ推しオススメ漫画『花の慶次』
『花の慶次』は 小説家・隆慶一郎先生の作品『一夢庵風流記』を原作として描かれた漫画です。
『北斗の拳』でお馴染み原哲夫先生の作品、読んだことない方は是非読んでみて下さい♪
絵が超カッコイイし、話も泣けるし熱いしでとにかく面白いのです!
島左近や徳川家康、織田信長が主人公の漫画もあります。
個人的にはやっぱり『花の慶次』がNo1!
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