真田幸村の最強カッコイイ最後の戦い!大坂夏の陣をゆるりと解説!

真田幸村の最強カッコイイ最後の戦い!大坂夏の陣をゆるりと解説!

徳川家康 ラインスタンプ

真田幸村の大坂夏の陣をゆるりと解説!

1614年の大坂冬の陣は和睦という形で終結。


今回はその4ヶ月後に起こった大阪夏の陣と真田幸村についてのお話よ~っ!

 

戦国時代もこれで終わり!

真田幸村は最後の最後で伝説を残した…ッ!!

 

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大坂夏の陣勃発の経緯

 

和睦によってひとまず平和的に収束した大坂冬の陣…

 

とは言っても豊臣家はしょうがなく和睦したわけなので、表面的には平和でも依然として両者の関係は不穏なままでした。

 

そして結ばれた和睦も、徳川家が上に立つ形での和睦。

 

徳川家康はこの和睦の条件の中に大坂城を囲う堀や櫓、二の丸、三の丸を破壊して埋めることを入れておりました。

 

 

こんだけやれば大坂城は要塞として機能しなくなる!

豊臣家は戦う術を失うのだ。


 

この破却作業についてはいつ、誰がこれに着手するかといった細かい指定はなかったようで、豊臣方は

 

 

幕府には外堀だけやらせ、それ以外は我らがやる。


 

という事にして、なるべく時間をかけて作業を進めていくつもりでした。

 

しかし、徳川方は大坂城の外堀をさっさと埋めてしまうと、勝手に内堀にも手を付けてしまいました。

 

 

聞いてない!

なに勝手な事してるの?!


 

豊臣方は約束が違うと抗議したのですが、幕府は適当にあしらうばかりでまともに取り合ってくれません。

 

徳川方の積極的な解体作業により、大坂城はみるみるうちに丸裸にされてしまいました。

(もちろん真田丸も破壊されている)

 

 

秀吉パパの築いた天下の大坂城が…。


 

 

あんまりだわッ!

徳川は何が何でも豊臣を潰すつもりね?!


 

激怒した豊臣方は再び牢人衆を集め、徳川との戦に備え始めました。

 

 

アレレ~?

和睦を結んだのに怪しい動きをしているぞ~?


 

もちろん、この動きは徳川家康の耳に入ることになります。

 

そして家康は次のように条件を提示して豊臣方に最終通告しました。

 

 

大坂を出て大和への移封を受け入れるか、召し抱えた牢人を全員追放するか…

 

どちらかを承諾するなら許してあげてもいいわよ?


 

大野治長

 

さすがに従いましょう。

今の状態で戦になってしまったら、マジで豊臣家が滅亡してしまいます。


 

 

ここで従っても、家康のことだからまた難癖つけて豊臣を潰しにかかるに違いない。

今以上に力を削がれては、豊臣家は何の抵抗もできずに終わりを迎える事になりますぞ。


 

 

真田の言う通りじゃ。

断固拒否!


 

 

OK、戦場で会いましょう。


 

幸村達浪人衆は徹底抗戦の構えを見せ、淀殿は豊臣の意地とプライドを見せる!

 

こうして改めて敵対関係がハッキリし、大坂で再び戦が勃発するのであります。

 

束の間の休戦中、真田幸村は何を考えていた??

 

真田幸村は大坂夏の陣が始まる一ヵ月以上前、小山田茂誠に宛ててこのような手紙を送っています。

 

 

明日の事などわからないこの浮世…

幸村の事はもうこの世にいないものと思って下さい。


 

なんとも悲壮感溢れる切ない手紙です。

幸村はいずれまた必ず戦になる事、それによって自分が死にゆく事を予感していたんですね。

※小山田茂誠は幕府下にある幸村の兄・真田信之の家臣。幸村の姉の旦那でもある。

 

冬の陣では徳川家康からスカウトされたし、身内を頼れば生き残る事だってできたのに幸村はそうはしなかった。

 

武士の意地、豊臣家への忠義、死を恐れない覚悟…カッコイイですね。

 

ちなみに、この手紙は幸村が人生で最後に書いたものだと言われております。

遺書みたいなものだと思うと、より切ない…。

 

負け戦待ったなし。真田幸村は勝つための作戦を必死に考えるも…

 

大坂夏の陣で集まった豊臣方の兵はおよそ5万5000人、冬の陣の時の半分ほどでした。

(これに対し、最終的に徳川軍は15万5000という大軍を動員する事になる。)

 

徳川家康に最終通告された豊臣家はいよいよもう後がない、これが完全に最後の戦です。

 

真田幸村は軍議の場で、今まで一度として出陣する事のなかった豊臣秀頼の出陣を強く望みました。

 

 

京に兵を進め、朝廷を抱え込む形で徳川を迎え撃ちましょう!

 

総大将である秀頼様が出陣すれば兵の士気も上がるし、朝廷がこちら側にいるとなると敵の動揺を誘う事ができます!


※朝廷…天皇を中心とする政治機関。

 

 

ダメ。

秀頼にもしものことがあれば豊臣はそこで終わりじゃ。


 

負け戦待ったなしの豊臣家が勝つための策を必死で考えた幸村ですが、この作戦は却下されてしまいます。

 

結局、籠城もできず、兵力差もかなり不利な豊臣方は敵の軍勢が全て集結する前に、兵を有効に使って各方面からやってくる軍勢を積極的に迎え撃つという作戦で臨む事になりました。

 

こんなにも真田幸村の策が却下されるのには、豊臣家が保守的なところもあると思われますが真田幸村は兄・真田信之が徳川家康の配下にあるので、豊臣方から「寝返ったりしないだろうな?」と疑われあまり信頼されていなかったという理由もあったそうです。

 

 

戦の事を何も知らない淀殿が決定権を持っているというのがキツイ…。


 

大坂夏の陣、開戦!各地で繰り広げられた戦とは?

 

1615年4月26日…

 

豊臣方は作戦通り、先手必勝で徳川の軍勢を迎え撃つよう行動を開始していきます。

 

この日、大野治房は兵を率いて大和(奈良)に侵入、徳川方の武将が守る郡山城を落としました。

 

これが大坂夏の陣での初めての攻撃、開戦の火ぶたが切って落とされた事になります。

 

ついで4月29日…

 

紀伊(和歌山)方面からやってくる徳川軍の浅野長晟を迎え撃つ為、大野治房・塙団右衛門らが2万の兵を率いて出撃しました。

 

浅野軍5000と大坂・樫井にて対峙するのですが、先陣を務めていた塙団衛門が功を焦って無理やり突撃し、討ち死にしてしまいます。

 

このため、豊臣軍はここで浅野の軍勢を取り逃がしてしまいました。

 

 

初っ端から我々はつまづいてしまった事になるね…。


 

そしてこの後、徳川家康が大坂・河内に到着。

 

真田幸村はこれを受け、家康の本陣に夜襲をかける作戦を進言します。

 

 

連日の行軍で徳川の兵達は疲弊しているはず、これからの戦に備えて今夜はゆっくり休みをとらせる事でしょう。

 

隙をつくなら今ほど良いタイミングはない!


 

奇襲をかけ、寡兵が大軍に勝利するのは割とよくある話…!

他に勝つ術も見当たらない状況だし、この奇襲が成功すれば家康の首がとれる可能性だってある!

 

良い案のように思えますが、これも軍議で揉めて実現せず…。

 

そして5月5日…

 

徳川軍の先鋒隊が大阪城周辺に進出してきます。

真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛はこれを道明寺で迎え撃つ計画を立てました。

 

5月6日…

 

前日の手筈通り、真田幸村・毛利勝永・後藤又兵衛は兵を率いて道明寺に出撃します。

 

が、真田幸村と毛利勝永は濃霧により目的地にスムーズに移動できず…。

 

一足早く道明寺に到着した後藤又兵衛は単独で水野勝成・伊達政宗らの軍勢と戦う事になり、幸村達が到着する前に討ち死にしてしまいました。

 

 

又兵衛殿…

我々が遅かったばかりに…。


 

真田幸村は遅参の失態を取り戻すべく、伊達政宗の軍勢と激しい戦いを繰り広げます。

 

そして幸村は伊達の鉄砲隊の攻撃を喰らわないように伏せて銃弾を回避、伊達軍が眼前に迫ってきた時に一斉に立ち上がり攻撃に出るという戦法で伊達の軍勢を押し返し、ここでも武勇に名を馳せる戦働きをしたのでした。

 

 

この時、伊達軍は800mほど後退させられたぞ。

数で勝ってなかったらヤバかったね。


 

この後、しばらく伊達軍と睨み合いが続くのですが、ここで幸村達のもとに『八尾方面で戦っていた木村重成が討ち死にした。ひとまず大坂城に退却せよ。』と連絡が入ってきます。

 

幸村は自ら殿を務め撤退を開始するのですが、徳川軍は背後から攻めてくるような事はしませんでした。

 

そんな弱腰の徳川軍に向かって幸村は

 

 

東軍100万人の中に、男は1人もいないようだな!!


 

と一喝し、カッコよく去っていったのであります。

 

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いよいよ最終決戦!その時、真田幸村と豊臣秀頼は…

 

頼れる味方が次々と討ち死にしてしまった豊臣軍…

 

徳川軍はいよいよ全軍で大阪城へ詰め寄り、最終決戦に向けて大阪城の南側に陣を構えました。

 

豊臣軍は完全に追い詰められている状況です。

 

ジリ貧の豊臣軍が決めた最後の作戦は雑魚は無視し、ラスボス徳川家康・秀忠だけに狙いを定め一発逆転で勝利を得るというものでした。

 

とは言っても総大将である家康・秀忠親子が布陣しているのは後ろの後ろ。

 

そこまでたどり着くには名だたる大名達の軍勢を突破しなくてはならないので、かなり厳しい作戦です。

 

 

まさに特攻隊そのもの…。


 

そして5月7日、最終決戦の日…

 

幸村はもう一度総大将・豊臣秀頼の出陣を要請しました。

 

 

いよいよ最後の決戦。

秀頼様のご出陣が兵達の勇気となるのは必至!


 

負け戦待ったなしのこの状況…、

秀頼の出陣を望んだのには、兵の士気を上げる目的以外にも豊臣家の名誉の為、秀頼直々の出陣で華々しい最後を飾るべきという武士の美学もあったことでしょう。

 

 

よし、満を持して秀頼出陣!!


 

やっと覚悟を決めた秀頼は甲冑を纏い、馬へ跨り門へと進みました。

 

しかし…

 

秀頼の側近

 

ダメダメ!秀頼様が出るには早すぎる!


 

 

で、あるか…。


 

秀頼出陣の知らせを聞いた家臣が阻止してしまいました。

ここまで追いつめられた状態でも秀頼の出陣は叶わなかったのであります…。

 

 

こういう時こそ大将が皆をひっぱり、味方を鼓舞するべきなのに。

所詮は戦を知らないお坊ちゃま…。


 

決戦の舞台は天王寺!真田幸村は伝説となる…

 

徳川家康,伊達政宗,幸村の最後,日本一の兵

早朝から両軍対峙、開戦は昼頃

 

徳川家康は天王寺方面に陣を構え、その前方には徳川家の譜代の家臣を配置していました。

 

真田幸村はというと、豊臣軍全体の指揮を任され、茶臼山に3500の兵を率いて布陣しておりました。

 

真田の軍勢は全て赤備えで統一、その様子はとても華やかで堂々としていたと伝わっています。

 

さておき、幸村はこのギリギリの戦でも

 

 

明石全登(あかしたけのり)の軍勢を家康の背後に回し、狼煙の合図待って突撃を開始する!挟み撃ちだっ!


 

といった、お得意の奇襲作戦を考えておりました。

 

しかし、豊臣か徳川か、どちらかが鉄砲を撃ちかけた事により徳川軍が突撃を開始。

 

待機を命じられていた豊臣軍も戦わざるを得ない状況に陥り、一気に乱戦へと突入してしまいました。

 

またしても幸村の作戦は実現しなかったのであります。

 

 

無念。こうも何もかも上手くいかぬとは。

幸村の命もここまでか…。


 

覚悟を決めた幸村は兵を率いて一気に茶臼山を駆け下り、正面の松平忠直の軍勢に向かって突っ込んでいきます。

※松平忠直…家康の孫。

 

松平軍は1万3000もの大軍で布陣していたのですが、幸村の軍勢は多数の死者を出しながらもこれを突破。

 

怒涛の勢いで突き進み、ついには徳川家康の本陣にまで突入しました。

 

 

嘘でしょ?!

ガッチガチに守備固めてるのにあんな少数でここまで来る?!


 

家康の本陣に控えていた兵達は、予想だにしない事態に大パニック。

 

家康の警護にあたっていた旗本達まで幸村達の勢いにビビって逃げ出してしまい、気づけば家康についている旗本は一人だけというとんでもない状況になってしまいます。

 

この時の本陣の崩壊っぷりは凄まじく、家康の脱糞事件でおなじみ『三方ヶ原の戦い』以降、倒れることのなかった家康の旗印が倒れてしまうほどだったとか。

 

 

天下の家康様の旗印がもみくちゃに踏まれるなんてよほどの事よ…。


 

しかし、いくら幸村達の勢いが凄いといっても兵力差はかなりのもの。

 

立ち直った徳川軍は負けじと奮戦し、幸村の軍勢を押し返します。

 

が、

 

 

ひるまないっ!押せ押せッ!!


 

幸村は押し返されては押し返し…と家康目掛けて突撃を続けました。

 

 

ホントにやばいんじゃ?!

こっちは兵に余裕あるけど幸村ならマジでワシのとこまで来るかも…!


 

家康は幸村の鬼神の如し戦いっぷりを見て本気で切腹を覚悟したと言われております。

 

 

結局、急いで逃げた…。

カッコ悪くとも生き残れば勝ちよ。


 

そして幸村は押し押されで三度目の突撃を開始するのですが、衆寡敵せず。

 

三度目の突撃でついに真田軍は徳川軍に押し返され、敗走してしまいました。

 

 

兵も散り散り、体ももう限界…。


 

この凄まじい戦闘はおよそ3時間にもわたって繰り広げられたといいます。

 

疲労困憊の幸村は戦場から少し離れた安居神社で休息をとるのですが、そこを西尾仁左衛門(にしおにざえもん)という者に見つかり討たれてしまいました。

 

その後、豊臣軍は総崩れとなり、その日のうちに大坂城は徳川軍の手に落ちました。

 

翌日、豊臣秀頼と淀殿は自害。

豊臣家はここに滅亡したのであります。

 

※ちなみに…幸村の長男・大助も秀頼に殉じて自害した。享年16歳。(最後まで寝返りを疑われていた幸村は、忠誠を示す為に大助を人質として秀頼の側に置いていた。)

 

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真田幸村の死、徳川家康は何を思う??

 

大阪の冬の陣・夏の陣と大活躍し、後に『日の本一の兵』と謳われる真田幸村を討ち取った西尾仁左衛門…

 

彼は此度の戦でNO1の大手柄を挙げたわけですが、家康から幸村の最期を尋ねられた時に

 

 

互いに力を尽くして戦いました…

激闘の末、やっと私は幸村を討ち取る事が出来たのであります( ・´ー・`)b


 

なんて話を盛ってしまい、

 

 

お前ごときが幸村ほどの英雄に勝てるわけないだろ。

幸村は長時間の戦で疲労困憊し、身体もボロボロだったはずだ。

 

お前は力尽きて動けなくなった幸村に槍をつけただけにすぎない。


 

家康からこんな事を言われたそうです。

西尾氏、赤っ恥。

 

そして真田幸村の首実験において、家康は幸村の叔父・真田信伊に本人のものか首を確認させるのですが、

 

 

幸村だと思うけど、死後で人相変わっちゃってるからハッキリと断定し難い。


 

と中途半端な事を言われ、家康はご機嫌ナナメになってしまったそうです。

 

 

(ビビらせんなよ…嘘でも断定しろよな…。)


 

関ヶ原の戦いでは上田城で徳川軍を翻弄し、大坂冬の陣では真田丸で徳川軍に大打撃を与えた。

 

そして大坂夏の陣では家康に死を覚悟させるほどに徳川軍を追い詰めた真田幸村…。

 

 

戦には勝ってるけど幸村には負かされてばかり。

徳川にとって幸村は不安要素でしかないんだよう。


 

家康にとって幸村は尊敬できるけどとても怖い、忘れたくても忘れられない特別な存在となった事でしょう。

 

日本一の兵!真田幸村は永遠に語り継がれる英雄ッ…!!

 

真田幸村が歴史に名を残すほどの活躍したのは大坂の陣が唯一といってもいいくらい、それまで目立つ存在ではありませんでした。

 

もし、真田幸村が九度山でそのままひっそりと生涯を終えていたなら

 

 

真田昌幸の次男に幸村って人がいるよ。

関ヶ原の戦いの時に昌幸と一緒に徳川秀忠と戦ったらしい。


 

といった、歴史好きなら知ってる程度の武将で終わっていたと思われます。

 

それが九度山を脱出し、幸村が死去するまでのわずか7ヵ月間の活躍で

 

 

真田幸村は豊臣家に最後まで忠義を尽くし、天下の徳川家康に死を覚悟させるほど勇猛果敢に戦った『日本一の兵』!


 

と伝説を語り継がれる英雄になったんだからホントに凄い武将だと思います。

 

 

間違いなく真田幸村はカッコイイ!


 

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