自由研究のために関ヶ原の戦いをわかりやすくまとめてみた
もうすぐ夏休み!
という事で、小学生の子供さん達の自由研究のお役に立てるような記事を書いてみたわよ~。
難しい話はナシにして、大事なところに重点を置いてなるべくわかりやすく…♪
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小学生向けに解説:そもそも戦国時代&関ヶ原の戦いとは?
戦国時代の歴史を勉強していない学年の子には、そもそも『戦国時代』とか『関ヶ原の戦い』って何??という話かもしれません。
まずは簡単に時代背景をご紹介いたします。
戦国時代とは?
今の日本は総理大臣が日本の政治のリーダーを務めています。
そしてそれぞれの県にもリーダーがいて、さらにそれぞれの市町村にもリーダーがいます。
戦国時代にも日本のリーダーがいて、その下にも県や町のリーダーといった人達がいました。
ちなみに、今は日本の各地は都道府県で名前がついているけど、昔は『国』で名前がついていたよ。
例えば、
新潟(新潟県)→越後(越後国:えちごのくに)
高知(高知県)→土佐(土佐国:とさのくに)
みたいに名前が違うんだ。
昔の人達は
日本の象徴的存在(天皇)
日本が良い国であるよう、頼むぞ。
日本のリーダー(将軍:武家のトップ)
お任せ下され。
大名達よ、私の指示のもと、国の統治をよろしく頼むぞ。
国のリーダー(大名:将軍に仕える
ハイ、国の政治頑張ます。
国人達よ、私の指示のもとで色々と協力頼むぞ。
国の中の小さな土地のリーダー(国人)
ハイ、小さな土地は我々にお任せ下され。
こんな感じで日本を統治していました。
今の日本と構図は同じです。
国人は大名の言う事を聞かなきゃいけない、
大名は将軍の言う事を聞かなきゃいけない、
そしてもちろん、日本が平和であるためには大名同士で争いをしてはいけないし、国人同士でも争いをしてはいけない。
前置きが長くなりましたが、戦国時代とは国人や大名がこの決め事を無視し、
国人が大名に逆らって国のリーダーになろうとしたり、
A国の大名がB国の大名を倒して、B国を支配しようとしたり、
大名が将軍を倒して日本のリーダーになろうとしたり…
と、全国各地で争いが続いた時代の事をいいます。
今の日本は選挙でリーダーを決めたり、話し合いで揉め事を解決するけど、
昔は何かあったら戦って土地や人を守るのは当たり前だったから、『戦国時代』と呼ばれる時代が続く事になったんだ。
ここでは簡単に戦国時代の事を説明したけど、詳しく戦国時代の流れについて知りたい方は
↓
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こちらをご覧くださいませ。
次は本題に戻って『関ヶ原の戦い』について解説していくわよ~!
関ヶ原の戦いとは?
戦国時代はいつからいつまでという定義はないのですが、大体1467年(応仁の乱)~1615年(大坂の陣)の間のことをいいます。
『関ヶ原の戦い』が起こったのは1600年、戦国時代の終盤です。
戦国時代が終わったのが1615年といえど、1590年に豊臣秀吉が天下統一し、ひとまずここで戦の時代が終わったという歴史はあります。
しかし、残念ながら豊臣秀吉は1598年に死去。
豊臣秀吉は
ワシが死んだら、ワシの子供・秀頼(ひでより)が次の天下人ね。
全国の大名達は、秀頼に協力してあげてね。
皆で協力して日本の政治を頑張ってね。
といったふうな遺言を残していたのですが、大名達は秀吉がいなくなった事で仲間割れを起こしてしまいます。
この豊臣家の仲間割れの状況が悪化して起こったのが『関ヶ原の戦い』です。
ちなみに『関ヶ原の戦い』は美濃国で起こった戦、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町に位置する場所です。
関ヶ原の戦いの中心人物は誰?
『関ヶ原の戦い』は俗に東軍VS西軍と東西2チームに分けられて語られるのですが、この東軍、西軍の中心人物が
西軍が石田三成(いしだみつなり)!
東軍が徳川家康(とくがわいえやす)!
でした。
この二人はどちらも豊臣家に仕える家臣ですが、立場はまるで違うものでありました。
石田三成は近江国の佐和山に19万4000石を領する大名。
幼い頃から豊臣秀吉に仕え、大人になると秀吉の右腕として活躍してきた。
豊臣家に対して忠義心の厚い家臣なのだ。
徳川家康は上野・武蔵・相模・下総・上総・伊豆・下野(約半分)の七国に250万石を領する大名。
豊臣家の次に石高の高い、超ビッグな大名なのだ。
昔は豊臣秀吉と敵対していた事もあったが、秀吉の強さに観念して豊臣家に仕えるようになった。
だから、心から豊臣家の為に働いているわけじゃないんだよね。
※参考までに。1590年頃の勢力図。
ちなみに、このXX石というのは、簡単にいえば大名達のお給料の額みたいなものであり、
この石高が多いほど、武士を雇ったり、武器を買ったりできるわけなので石田三成より、徳川家康の方が強い大名という事になります。
豊臣秀吉の死後、石田三成は
これからも豊臣の天下のもと、平和な時代が続けばいいなぁ。
後継ぎの秀頼様をしっかりと支えてあげなきゃね。
と望んでいたわけですが、徳川家康は
天下人になりたいなぁ…。
秀吉もいなくなったし、なれるんじゃない?
と密かに野望を抱いておりました。
そして家康はその野望を叶えるために、色々と作戦を立てて実行していきます。
そんな家康の野望に気づいた石田三成は、それを阻止するために立ち向かっていくのであります。
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徳川家康は天下人になる為に何をした?戦が起こった経緯とは?
豊臣秀吉の後に天下人となるのが豊臣秀頼(とよとみひでより)…
この秀頼が
日本の平和の為に、みんなで協力して頑張ろう!
とリーダーシップを発揮できる人物であれば、武将達の仲間割れは防げたかもしれませんが、豊臣秀吉が亡くなった時まだこの秀頼は子供でした。
つまり…秀頼は天下人だけど、大名達をまとめる事ができない。
家康は
秀頼ちゃん、大人になるまで協力するからね。
家康に天下なんてとらせないからね。
といった人達を黙らせる事ができれば、自分が一番の権力者になれるというわけです。
そこで家康がどんな事をして自分の力を強めていったのかというと…
【政府の許可なしに大名同士で婚姻関係を結ぶのは禁止】という決まりを無視して、大名たちと勝手に婚姻関係を結んだ。
【勝手に知行を与えてはいけない(大名に石高を増やしたりしちゃダメ)】という決まりを無視して、大名達に勝手に知行を与えた。
大名達で相談して決める事を、一人で勝手に行っている。
『上杉景勝が豊臣家に対して謀反を企んでいる』と決めつけ悪者にした。
(上杉景勝は120万石の強い大名。石田三成の味方だったから、悪者にして潰してやろうと考えた)
豊臣秀吉の妻・ねねを大坂城から追い出して、自分が大坂城に入った。
こういった事をしておりました。
そして
もう我慢の限界!
話し合っても言う事聞いてくれないし、家康を倒す!
ということで、ついに『関ヶ原の戦い』が起こる事になるのです。
関ヶ原の戦いの重要人物は??
『関ヶ原の戦いは』豊臣家に仕える大名達の仲間割れによって起こった戦ですが、そもそもこの仲間割れはなぜ起こったのか…?
ここでは関ヶ原の戦いのカギを握る、重要人物をご紹介します。
東軍:徳川家康&味方についた大名達
東軍の総大将。
250万石という圧倒的な石高、リーダーシップで大名達を味方に引き入れた。
あくまで家康は、『秀頼様の為に働いてます。なのに石田三成がワシを悪者扱いする。戦するんなら受けてたつよ。』といった感じ。
福島正則(ふくしままさのり)と加藤清正(かとうきよまさ)。
二人は豊臣秀吉に幼い頃から仕える家臣。そして秀吉の親戚関係でもある。
石田三成と仲が悪い。
三成が家康に勝って豊臣家のトップに立つのが嫌だったから、家康の味方に付いた。
家康が実は天下を狙っている事に気づいていなかった可能性がある。
黒田長政(くろだながまさ)。
上に同じく、幼い頃から豊臣秀吉に仕えていたが、積極的に徳川家康の味方をしている。
石田三成の味方についた大名達とこっそり連絡をとり、家康の味方につくように説得していた。
武将達が東軍の味方についたのには…
『石田三成が嫌いだから』
『豊臣家には恩があるけど、家康が勝つと思うから東軍につく。』
『家康とか三成とかどーでもいいけど、家康についた方が得する。』
それぞれ色んな理由があるのよ~。
西軍:石田三成&味方についた大名達
家康を倒すべく、西軍の中心人物となって奔走した。
けど、大谷吉継から『お前はあんまり人に好かれてないから、裏で働け』と言われている。
大谷吉継(おおたによしつぐ)。
石田三成の親友的存在。
西軍が勝つための作戦を考え、三成に沢山アドバイスした。
毛利輝元(もうりてるもと)。
中国地方に120万石を領する大大名。
西軍の総大将(リーダー)は実は石田三成じゃなくてこの人。
(およそ20万石で人望ナシの田三成がリーダーでは人が集まらないから。)
小早川秀秋(こばやかわひであき)。
西軍についたものの、戦当日に裏切って東軍の味方をした。
吉川広家(きっかわひろいえ)。
そんなに目立った活躍ではないが、小早川同様に戦当日に裏切って東軍の味方をした。
『関ヶ原の戦い』当日はどんな感じだった??
関ヶ原の戦いが起こったのは慶長5年(1600年)9月15日。
当日、関ヶ原の地には
石田三成率いる西軍 8万2000
徳川家康率いる東軍 7万4000
合わせて15万を超える大軍が集結しました。
(兵の数は諸説アリ)
【関ヶ原の戦いの布陣図】
戦が始まってしばらくは互角の戦いが行われていたといいますが…
布陣図の右に位置している吉川広家は、西軍を裏切って兵を動かさず。
※吉川広家は、毛利秀元に動くよう言われたが「今、お弁当食べてるので動けません」と無茶な言い訳をしていた。
そのため、後ろに控えていた西軍の武将達も状況が把握できず、動くことができませんでした。
これが西軍の武将達の一つ目の不幸…。
そして二つ目の不幸は、布陣図の左下の小早川秀秋です。
小早川秀秋は西軍8万2000のうち、1万5000という関ヶ原参戦メンバーの中でもトップクラスの大軍を率いていました。
東軍と西軍、どちらにとっても戦の勝敗を決める重要人物です。
戦が始まる前、小早川秀秋は徳川家康と石田三成のどちらからも味方に付くよう言われていたのですが、
どっちが勝つかわからない…。
しばらく様子を見よう。
と悩んでいたので、しばらく兵を動かしませんでした。
しかし、
ワシの味方をせんかい!
戦えー!
と徳川家康が怒り、小早川秀秋の軍勢に向かって鉄砲を打ち込んだことで…
家康怒ってる!
よし、家康の味方につくぞ!
小早川秀秋が西軍に向かって攻撃を開始しました。
(という逸話がある)
そしてこの小早川秀秋の大軍が裏切ったことにより、近くにいた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱も一緒に裏切りました。
裏切り組は合わせて19000を超える兵力だったとのことで、石田三成ら西軍は一気に形勢逆転されて戦に負けてしまったのでした。
決着は1日でついたよ。
関ヶ原の戦いの勝敗を決めたのは、私の裏切りだったのだ。
関ヶ原の戦いのその後
関ヶ原の戦いで勝負がついた後、西軍の武将達は急いで戦場から脱出しました。
しかし、敗者となってしまった西軍武将達の末路は悲しいものでした。
西軍の中心人物であった石田三成は、戦場から脱出するも捕えられて処刑され…
三成を支えた大谷吉継は戦場で切腹しています。
そして総大将を務めた毛利輝元は、処刑はまぬがれたのの120万石から30万石へと減らされてしまいました。
勝者となった徳川家康は日本で敵なし状態となり、後に名実ともに天下人へとなりました。
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良き自由研究を♪
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