真田昌幸・幸村の関ヶ原!策略凄すぎな上田城合戦&涙の九度山追放

真田昌幸・幸村の関ヶ原!策略凄すぎな上田城合戦&涙の九度山追放

徳川家康 ラインスタンプ

真田昌幸・幸村親子は関ヶ原の戦いの時なにしてた??

1600年、関ヶ原の戦い勃発!

その時、西軍についた真田昌幸・幸村親子は何をしていたのか?


 

…というと、真田の本拠地・上田城で徳川秀忠の軍勢と戦っていたのよ~。

 

この戦では真田昌幸・幸村親子の天才策略家っぷりが大爆発したわね。

 

今回はそんな真田親子の関ヶ原の戦い(第二次上田合戦)をゆるりとご紹介!

 

 

※戦勃発までの経緯を知りたい方は真田幸村の青年時代をゆるりと解説!人質生活や親子の決別…←コチラから読むのがオススメっ。

 

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第二次上田合戦勃発!開戦前から策士っぷりが凄い真田昌幸!

 

徳川家康は上杉攻めに向かっている最中、

 

 

石田三成が徳川家康を討つべく挙兵した!


 

との一報を受けると、江戸城へ戻り兵を整え家康は東海道ルート、秀忠は中山道ルートを通って関ヶ原の地へ…と二手に分かれて進軍を開始しました。

※秀忠・・・徳川家康の次男で跡継ぎ。

 

そしてこの中山道ルートを進む秀忠軍の標的となったのが、石田三成派の真田昌幸・幸村親子が守る上田城であります。

 

 

想定の範囲内!城の防備も固めまくったし、迎え打つ準備万端!


 

徳川秀忠が率いるのは3万8000もの大軍、対する真田親子の手勢はわずか3000とかなりの兵力差がありました。

 

徳川方からすると

 

徳川秀忠

 

こんだけの兵力差があれば真田もすぐに降伏するでしょ。


 

てな感じで割と余裕があったことでしょう。

※この上田城攻めは秀忠が独断で行ったと言われているけど、背後の憂いを失くすために家康が命令していたとも言われている。

 

そして兵を進めた徳川秀忠は、上田城から少し離れた場所にある小諸城に着陣します。

 

これが9月2日、関ヶ原の戦いが勃発する13日前の事です。

 

そしてこの翌日、徳川秀忠は真田昌幸に

 

徳川秀忠

 

大人しく城を明け渡してくれたら城兵の命は助けるよ!


 

と降伏するよう勧告しました。これに対し真田昌幸は

 

 

OK!城を明け渡します!


 

とあっさり降伏を宣言。

しかし…

 

徳川秀忠

 

早く城から出てきて?


 

 

家臣の一部がゴネちゃってて。すぐ説得するから、ちょっと待っててね。


 

この降伏宣言は嘘。

真田昌幸はここで可能な限り時間を稼ぎ、その間に神川の流れをせき止める工事を秘密裏で行いました。

 

 

(何の為の工事かは、後でわかるよ~!)


 

そしてなんやかんや理由をつけて待たすこと3日…

 

徳川秀忠

 

まだ?!


 

 

まだ。

 

っていうか…降伏は嘘で~す。


 

徳川秀忠

 

騙された…絶対に許さんっ…!!


 

9月6日早朝、激怒した徳川秀忠はついに上田城へ攻撃を開始します。

 

 

これでいいのだ。どんとこいっ!


 

この上田城の戦いにおいて真田昌幸の目的は一つ、徳川秀忠率いる3万8000の大軍をこの地に足止めする事でした。

 

 

この大軍が上方の戦に参戦すれば、西軍の武将達は苦戦を強いられる事になっちゃうからね!


 

真田昌幸と真田幸村が大活躍!第二次上田合戦!

 

上田城攻めを開始した秀忠は真田の支城である戸石城を占領し、染谷台に多数の部隊を配置しました。

 

徳川秀忠

 

15年前の上田合戦で徳川軍は、戸石城方面から挟み撃ちにされて敗北した。

今回はそのような戦法は通じないぞっ!


 

というわけです。

そして徳川軍は上田城の近くの稲を刈り、真田勢を挑発して城外へおびき出す作戦にでました。

 

 

敵も大軍とはいえ、うかつに攻めてはこないね。


 

 

我々に城外へ出てきてほしいみたいだし、チョイと行ってくるわ。


 

真田昌幸は自ら兵を率いて城外へと突撃、徳川軍の先鋒隊はすかさずこれに攻撃を加えます。

 

 

敵わんわ~。


 

もちろん徳川の大軍を潰せるわけもないし、目的はそれでもないので昌幸はすぐに城へと退却。

 

すると前線で戦っていた敵はそのまま敗走していく昌幸達を追い、どっと城壁近くまで押しよせてきました。

 

 

釣れた~!ワシの狙い通りよ、撃て撃て~!


 

上田城内の兵達は押し寄せてきた敵兵目掛けて一斉射撃、昌幸の策略にまんまと嵌った敵兵は次々に倒されていったのであります。

 

 

やったね!そしてここからは幸村の出番!


 

この後、後方に控えていた徳川軍は神川を渡り兵を進めてきました。

 

そして幸村は敵が神川を渡った直後、工事していた神川のせき止めを切らせます。

 

 

神川は激流に飲まれて大氾濫、これにより徳川軍の退路は断たれたのである!


 

このタイミングで幸村は兵を率いて城外へ突撃開始、そしてさらに虚空蔵山に潜んでいた真田の伏兵も突撃に加わりました。

 

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※つまり挟み撃ち。幸村の指揮官能力が素晴らしい事が証明された。

 

徳川軍はこの不測の事態に対応できず大混乱。

 

真田軍の猛攻を受け、徳川軍は多くの死傷者を出し敗走を余儀なくされたのでした。

 

徳川秀忠

 

城は落ちるどころかこの有様…もう一週間以上も手こずってる…(´;ω;`)


 

この後…

 

 

早く関ヶ原に来て!戦が始まっちゃうよ!


 

と知らせが届いた事で秀忠は城攻めを断念、9月11日に上田城から兵を引き上げていきました。

 

 

一週間以上の足止めに成功!

その甲斐あって、秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかったのである。


 

しかし結局、関ヶ原の戦いで西軍が負けてしまったので、真田親子は家康に降伏して上田城を空け渡す事になります。

 

結果的には敗北した事になりますが、秀忠軍を散々に苦しめ、関ヶ原の戦いで東軍の兵力を3万8000もカットする事に成功した功績をみると、この上田城の戦いにおいては真田の勝利といってよいでしょう。

 

 

野戦の天才と言われる家康が相手だったらこうはいかなかったかも?


 

 

秀忠はこれが初陣だったらしいし、勉強不足&経験不足だったかな?


 

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真田信之が頑張った!真田親子は死罪を免れ九度山へ…

 

関ヶ原の戦い後、徳川家康は散々に自分達を苦しめた真田昌幸・幸村親子を死罪にするつもりでした。

 

 

昌幸には二度も裏切られてるし。

その息子も戦上手の有能だなんて生かしておけん。


 

しかし…

 

真田信之

 

家康様が私に与えてくださった信濃を返上します。それと引き換えに父と弟をお許しになってください。


 

 

ダメ!


 

真田信之

 

わかりました…。

では父と弟を死罪とする前に、この信之に切腹をお命じ下さい!


 

 

馬鹿言ってる。そんなの認めません!


 

 

忠勝からも頼みます。どうか寛大な処置を。

それでもダメだというなら殿と一戦交わしてでも止めるつもりです。


↑真田信之の嫁の父。

 

 

ぐぬぬ。そこまで言うなら折れるしかないじゃない…?


 

真田信之と本多忠勝の必死の助命により、昌幸・幸村親子は死罪を免れ九度山に蟄居するという寛大な処置がとられました。

※九度山は紀伊(和歌山県)の高野山の麓にある。

 

 

命は助かったけど、地位も名誉も財産も全て失ってしまった…。


 

九度山での監視の目は厳しいものであったといいますが、高野山領内をある程度自由に出歩く事は許されていたそうです。

 

幸村は限られた行動範囲の中で、猟師さんと狩りをしたり、飲み語らったり、寺院の人々と連歌を詠んだり…とポジティブに蟄居生活を送っていたとの事です。

 

 

とはいってもその楽しみも最低限。華やかな生活とはかけ離れた慎ましいものだった…。


 

生活も超カツカツ、真田信之が細々と仕送りを続けてくれたようですが、貧しい生活から脱する事はなかったようです。

 

こんな生活を送る事約10年、父・昌幸は病により64歳で生涯を終えました。

 

九度山に来てからというもの、真田昌幸は武将としての覇気を失い、精神的なストレスを抱え失意の中で生涯を終えたと言います。

 

そして昌幸の死後、九度山に付き従ってきた真田家家臣の多くが国元へ帰還しました。

 

真田幸村と共に九度山に残ったのは幸村の妻と子供、それと3名の家臣だけだったという…。

 

以前に増して寂しい生活を送る事になった幸村ですが、さらにこの後、火事にあって借金するハメになったりとドン底の貧困生活を送っていたそうです。

 

 

国元へ帰った家臣達に仕送りをせがむ落ちぶれっぷり…

あまりのストレスからか、幸村は歯も抜け落ちてメチャ老け込んでしまったのだ。


 

落ちるとこまで落ちていった真田幸村ですが、昌幸の死から3年後に転機が訪れます。

 

 

豊臣と徳川が戦をする?!

幸村に出陣してほしいですってー?!


 

戦国時代最後の戦にして真田幸村が伝説となった戦【大坂の陣】が始まるのであります…!

 

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