佐々成政、意地と執念のさらさら越え!最期は秀吉への憎悪が爆発
生涯 | 1512年?1536年?1539年?~1588年 |
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出身 | 尾張(愛知県) |
全盛期 | 肥後50万石 |
主君 | 織田信長、三法師、豊臣秀吉 |
有名な親族・家臣 | 盛政(父)、政次(兄)、孫介(兄)、佐久間勝之(養子) |
思い出の戦 | 一向一揆、浅井朝倉との戦い、長篠の戦い、末森城の戦い、富山の役、九州征伐など |
佐々成政いえば | 黒母衣衆、さらさら越え、秀吉のことが嫌い |
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佐々成政の歴史、逸話などゆるりとご紹介
佐々成政は織田家時代、良い役職に就いて仕事をバリバリこなし、着々とキャリアを積んで出世を重ねていた立派な大名よ~!
順風満帆、エリート街道突き進んでたキラキラ武将だったわけ!
…なんだけど、信長の死後は嫌いな秀吉が台頭しちゃったもんで、成政は鬱憤の溜まる悶々とした日々を送る事に…。
今回はそんな佐々成政の栄光と転落の歴史、インパクト強めな最期までをご紹介~!
佐々成政はチーム信長の初期メンにしてエリート家臣!
佐々成政の生まれ年ははっきりわかっておらず、1512年~1539年??…と所説あるみたいです。
1512年生まれなら織田信長より20歳以上も年上だし、
1539年生まれなら信長より少し年下…
父親は織田信秀(信長の父)に仕えていた尾張の豪族・佐々盛政であり、成政はその三男(次男とも。)であります。

なんだか出自はフワフワしてるけど、とにかく父の代から織田家に仕えていたのは間違いナシよ。
佐々成政は織田信長に早くから仕えて良い役職につき、出世を重ねて手堅いポジションについていたいわば織田家のエリート家臣でありました。
そんな成政の初陣は1542年…
詳しいエピソードはないみたいですが、小豆坂の戦いと呼ばれる戦に参加して七本槍の一人となって感状をうけたらしいので、成政は初陣にして頼もしい活躍を見せた模様。
そして1561年には美濃の斎藤氏との戦で稲葉又左衛門という剛の者を池田恒興と共に討ち取り、織田信長から賞賛されております。

着々と武功をあげ、幸先良し!
ちなみに、これまでに兄が戦死してしまったのでワシが佐々家の跡継ぎとなっているぞ。
佐々家の長となってからも絶好調、成政は馬廻りとして信長の側で活躍していくことになります。
1567年頃には黒母衣衆に抜擢され、成政はその筆頭となりました。

黒母衣衆って何?…って思った?
黒母衣衆はいわば信長様の親衛隊、みたいな感じだぞ。
選りすぐりの精鋭10名で構成されてるんだけど、そのチームのトップなんだから、そりゃもう、ワシって優秀だったって事よぉ。

ちなみにもう1チーム、赤母衣衆ってのがあるんだけどそっちの筆頭はワタクシでございますよぉ~。
こちらも10名で構成されているぞ!
赤母衣衆と黒母衣衆は2チームにわかれた事でおのずと功を競うようになってしまい、佐々成政と前田利家は不仲だったとの噂であります。

お互いを高め合う系のライバル関係だった可能性も…?!
まぁでも、同じ職場で同じようなポジションにいたら色々あるでしょうなぁ…。
佐々成政と前田利家が筆頭!その母衣衆とは一体なに??
※大きな籠を母衣という布で覆ったものを背負って戦場を駆ける。
母衣衆(ほろしゅう)は戦場で主君の命令を伝達したり、ボディーガードを務める名誉ある役目。
この母衣を背負う華やかな騎馬姿は武士達の憧れの的だったそうな。
ちなみに成政が1539年生まれなら前田利家と同年代になるので、絵面的に凄く良い感じ…!
戦で大活躍!佐々成政は鉄砲を使った戦術に定評アリ
1558年、織田信長は堺にて鉄砲を入手すると…

こいつァ~すげぇや。
これからの時代、戦場で鉄砲がトレンドとなるのは必至!
鉄砲を沢山こしらえ、強い軍隊を作り上げてみせるぞ!
とのことで、鉄砲に関するプロジェクトを発足させました。
そしてこの一大プロジェクトを任されたのが、我らが佐々成政であります。
成政は刀鍛冶に鉄砲を作らせたり、鉄砲の買い付けをしたり、戦術を考案したり…と仕事をこなし、鉄砲隊を形作る事に大いに貢献しました。
そしてこれ以降、成政は鉄砲隊の指揮官となって活躍していく事になります。

ここでサラサラっとワシの戦歴を見てみよう!
1567年…
美濃の斎藤龍興を滅ぼすことになった『稲葉山城の戦い』では成政が鉄砲隊300人を率いて活躍。
斎藤龍興に勝利した織田信長は美濃を手に入れました。
1570年…
越前の朝倉義景を攻めてる最中、信長の同盟相手の浅井長政が裏切って挙兵。
そして起こった『金ヶ崎の戦い』では成政が鉄砲隊を指揮し、二段撃ちを用いて1000あまりの首をあげたと言われており、
その後に起こった朝倉・浅井連合軍との戦(姉川の戦い)でも鉄砲隊を率いて参戦しております。

弾込めなおして火薬に火をつけて~…って一発撃つのに時間かかるから、
一段目で撃ってる間に二段目が弾や火薬込めて~…ってする事で絶え間なく撃てる戦法である。
1573年…
これまた越前の朝倉攻め(一乗谷の戦い)、近江の浅井攻め(小谷城の戦い)に鉄砲隊を引き連れ参戦。
浅井と朝倉はそれぞれ、この時の戦で滅亡しました。

この翌年、長島一向一揆でワシの長男が戦死してしまうという悲しい出来事があったぞ…。
1575年…
織田信長が鉄砲をフル活用した戦で有名な『長篠の戦い』でも成政は鉄砲隊の指揮を務めました。
この戦では3000挺もの鉄砲が導入されたとのことです。

進化した『三段撃ち』で武田の騎馬隊を蹴散らし、織田軍を勝利に導いたのである。
武田勝頼をボロ負けさせてやったのだ。
そして同年、越前の一向一揆との戦にも参加。
織田信長は越前を平定すると、柴田勝家を北陸方面のリーダーとして越前に置きました。
佐々成政は柴田勝家の与力となり、前田利家、不破光治の2名と共に越前府中に在任する事となりました。

我々は『府中三人衆』と呼ばれていたぞ。
3人で合わせて10万石程の所領を与えられていたのだ。
秀吉はムカつくし謙信には負けるしで散々!でも出世したからOK!
1577年…

上杉謙信が能登へ侵攻してきたんだと!
長続連が籠る七尾城が包囲されてるから助けてやって~!
とのことで、七尾城を救うべく織田軍が出撃。
※長続連(ちょうつぐつら)…能登に勢力を誇る畠山氏の家臣。
柴田勝家が総大将となり、佐々成政含む北陸方面軍団ほか丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益といったメンツが加わり合わせて4万もの大軍が七尾城へと向かいました。
…が、救援間に合わず。
織田軍の進軍中に七尾城は敵の手に落ちてしまいました。
それを知らないまま柴田勝家御一行は進軍を続けるのですが、途中、羽柴秀吉が作戦の事で柴田勝家と揉めて

勝家殿のわからずや!
もう知らん!帰る!
と勝手に戦線離脱し、独断で帰国してしまうという事件がありました。

先輩に対して生意気すぎ~!
総大将のいう事聞けっつぅのな!
ないわ~秀吉ないわ~!

ホンマそれよマジないわ~!

ないよね~。
そんな珍事件を挟みつつも勝家達は進軍を続けるのですが、

えっ?
すでに七尾城は落とされた?!
ほんで上杉謙信がそこまで迫っているとな?!
上杉軍来襲の報を耳にすると撤退を開始しました。
が、気づくのが遅かった。
加賀の手取川を越えてしまっていた織田軍は、追撃してきた上杉軍と川に挟まれる形になってしまい、『手取川の戦い』と呼ばれる戦で大敗してしまいました。

織田軍は1000人以上の死者がでたという…。
大混乱の中で川中を撤退したから溺死する者も大勢いたし、悲惨であった…。
やはり上杉謙信は強い…!
越後に近い場所にいる成政ら北陸チームは今後も上杉謙信を相手にしなくてはいけないので大変…
と思いきや、1578年に謙信が死去。
上杉家は跡継ぎを巡ってお家騒動が起こり織田の相手どころではなく、
謙信の死去によって情勢も変化したので能登は織田信長が手中に収めることとなりました。

強い相手との戦は回避できるに越したことはないね。
その後、越中も無事平定され、ワシは越中半国を与えられたぞ。
そして1582年…
越中富山城主・神保長住が反織田勢の旧臣に急襲され捕らえられる…という事件が起きると

織田軍が助けてやったおかげで富山城が敵の手に落ちることはなかった…。
一安心だけど、神保にはもう任せられないから追放するわ。
もう越中はまるまる成政に任せる、頼んだぞ。
とのことで佐々成政は越中一国をゲットし、富山城主となりました。
その後は柴田勝家や前田利家らと一緒に、上杉景勝(謙信の跡継ぎ)が防衛拠点としている越中の魚津城を攻め落としております。

加賀、能登、越中…と平定し、ついに上杉の本拠地に手が届く所まできた!
越後が我らのものとなる日も近いぞぉ~。
ってな感じで絶好調な北陸チームでしたが、魚津城を落とした翌日に本能寺の変で信長が亡くなるというまさかの大事件が起きてしまった為、上杉どころではなくなった武将達はそれぞれ自領へと引き返す事になったのでした。

帰国途中、上杉軍の反撃にあって精一杯だったから信長様の仇討ちには行けなかった…。
織田家のパワーバランス崩壊!成政は目立ち始めた秀吉が気にくわない
1582年、本能寺の変にて織田信長が死去。
信長を死に追いやったのは明智光秀であり、その明智光秀を倒したのが羽柴秀吉でありました。
その結果、秀吉が織田家の中で発言力を持ち始めたもので…

ちょっとちょっと、織田家は秀吉さんのものですか?
ちゃいますよね?
でかい顔しやがって気に食わん!!

同じく!
凄まじく気にくわーん!!!!
佐々成政は柴田勝家の味方に付き、秀吉と対立していく事となりました。

勝家殿やワシのような古参のエリート家臣からすれば、そりゃ、中途採用でやってきたやつが仕切りだしたらウザイわな。
対立が深まり、1583年にはついに勝家と秀吉の間で『賤ヶ岳の戦い』と呼ばれる戦が起こるのですが、
成政はこの時、勝家に味方するも上杉氏の抑えとして越中にいたのでこれに参戦できず…。
賤ヶ岳の戦いでは勝家軍の一員であった前田利家が戦中に勝手に撤退するという事件もあり、柴田勝家は敗北して自害に追い込まれてしまいました。

最大の仲間が死に、秀吉は味方を得て増々力をつけている…。
悔しいけど単独で抵抗するのは無理か。
成政は致し方なく秀吉に降伏…
領地は安堵され、ひとまず事なきを得ました。
が、翌年また秀吉と敵対することとなります。
佐々成政のさらさら越えが凄い!これぞ男の意地である
1584年…

柴田勝家がいなくなってからというもの、織田家は秀吉の独壇場だよ!
このままでは織田家が秀吉に乗っ取られちゃう!
家康さん、倒すの協力して!

するともさ!
織田信雄(信長の次男)が家康と組んで秀吉と対立し、両者の間で戦が起こることとなりました。
これまた織田家内で割れる事になったわけですが、佐々成政は当然

秀吉嫌い。
なので家康チームに属し、秀吉の味方に付いた前田利家の領地へ攻め入りました。
しかし、朝日山城…末森城…と、攻めるも敗北してしまい、思うような戦果をあげることができませんでした。
そして肝心の秀吉と信雄・家康連合軍は尾張にて対峙し、そこで『小牧長久手の戦い』と呼ばれる戦が起こるのですが…

家康は戦強いからな~。
長引くと面倒だし、信雄を丸め込んでこっちが有利な条件で和睦しちゃお。
秀吉の外交的戦略により、和睦を結んでこの戦は終結しました。
結局、織田家は秀吉の支配下に入る形となり、秀吉は増々の権力を握ることになってしまったのであります。
徳川家康も

信雄が秀吉と仲直りしたとなれば、ワシが秀吉と戦う理由がなくなってしもた…。
ということで、不本意ながら大人しくせざるを得なくなったわけですが…

ワシャあきらめてない!
あきらめてないから戦はまだ終わってないんだよぉ!
立ち上がれ家康殿ーーーー!!!!!
佐々成政だけは諦めていませんでした。
何が何でも秀吉をブッ潰したい成政は…
家康を説得するために諸説あるみたいだけど厳冬の立山沙羅峠(飛騨山脈/北アルプス)を越えて浜松に向かいました。

加賀、越前、美濃などは秀吉の支配下にある…
そこを避けて行くには豪雪地帯を登山する以外に道はない…っ!!
危険は十分承知していたでしょうが、あまりにも無謀。
その時の天候によっては猛吹雪だったかもしれないし、メートル単位で雪が積もっていたかもしれない…。
道中、数十名が凍死したとも言われているようだし、相当過酷な旅であったと思われます。

このスーパーハード登山は『さらさら越え』と言われておるぞ。
そんなこんな、決死の覚悟で真冬の登山を決行して無事に浜松に辿り着く事ができた成政ですが、
交渉の結果、残念ながら家康から良い返事を得る事ができませんでした。
そしてこれまで一緒に戦ってきた織田信雄や滝川一益も成政に賛同してくれず…。

それでもワシは秀吉に従うなんてごめんだね!
小牧長久手の戦いの翌年、アンチ秀吉派だった四国の長宗我部元親が秀吉に攻められ降伏し…
秀吉が関白という職に就き、凄まじいご威光を手に入れても…
※関白は天皇を補佐する役職。
それでも成政は秀吉に対する姿勢を変えませんでした。
その結果、

ワシのことめっちゃ嫌うやん?
さすがに許さんで。
秀吉は反抗的な成政を成敗する為、10万もの大軍で富山城へと進軍しました。

どえらい大軍で包囲されてしまった。
打つ手なし、意地を張るのもここまでか…。
すっかり戦意喪失した成政は、すぐさま降伏を申し入れました。
秀吉と成政の直接対決は戦う前に力の差を見せつけられ、あっさりと成政が秀吉にひれ伏すという、プライドが傷つきまくりの悲しい結果に終わってしまったのであります。

助命されたものの、ワシは領地をほとんど没収されて大坂に移住させられたのである…。
以後しばらく、成政は御伽衆(側でタメになるお話したりする人)となって秀吉に仕えることになります。
この時の成政の心情やいかに…。
もはやパワハラ。佐々成政、理不尽に追い込まれ壮絶な最期を遂げる
1587年…
秀吉は九州征伐を行い、かねてより反抗的であった薩摩の大名・島津義久を降しました。
この九州征伐に従軍していた佐々成政は戦功をあげたとのことで、戦後、肥後を与えられて一国の大名に返り咲く事ができました。
そこで早速仕事に取り組むのですが、
検地を行うだと?
うちらの土地で勝手な税の取り立てするんじゃないわよー!
よそ者のくせにー!
と、国人達が一揆を起こしてしまいます。
暴れに暴れた一揆衆は成政の力だけでは止めることができず、周辺の武将達の協力を得てやっと鎮圧することができたのですが…

一揆を起こされちゃうなんて大問題!
成政に国を治める資格ナシ!
成政は一連の責任を問われる事になってしまいました。

そんなっ…ここの土地は治めるの難しいってわかってたはずだし!
一揆なんて珍しい事でもあるめぇよ!
ワシの事好かんからってそれはないぜ!
成政は弁明するため、秀吉のいる大坂へ出向くのですが会ってもらえず、
許してもらうどころか摂津尼崎で幽閉され、まさかの切腹を申し渡されたのであります。
成政は最後の時…

ンギギ…秀吉ぃ…。
大坂城の方角を睨みつけるのですが、その時に歯が数本こぼれ落ちるほどにきつく歯を食いしばったといいます。
そして腹を切ると、臓物を引きずり出して天井に投げつけたそうな。
最後の最後で秀吉への憎悪が爆発した模様。
そんな成政の時世の句は
このごろの 厄妄想を
入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり
…であります。
多分、こんな意味の句。

格下だった嫌いな人間が天下人になるほど出世し、ワシはそいつの下で落ちぶれていく…
悔しくてみじめな気持ちになるに決まっておろぅ!!
ちなみに佐々成政には男子がいたけど早世した(養子もいたが縁組解消していた)ので跡継ぎとなる子がいませんでした。
戦国時代、大名として花開いた佐々家は断絶してしまったのであります…。
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