滝川一益の輝かしい戦国時代!けれども最後はちょいと寂しい?
生涯 | 1525年~1586年 |
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出身 | 近江、甲賀の忍者と噂される |
全盛期 | 上野、信濃二郡 |
主君 | 織田信長、羽柴秀吉 |
有名な親族 | 滝川一忠(長男)滝川益氏(従弟?甥?前田慶次の父親説アリ) |
思い出の戦 | 伊勢攻略戦、第二次木津川口の戦い、甲州征伐、神流川の戦い、小牧長久手の戦いなど |
滝川一益といえば | 忍者説、褒美は茶器がいい、清須会議間に合わず、『いちます』と読む方が正しいという噂 |
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地味な最後がいい、滝川一益をゆるりとわかりやすく解説
織田家の優秀な家臣、滝川一益!
信長存命中の活躍といったらそりゃあもう凄かったんだから~。
でも信長の死後はちょっぴりついてなかった??
戦国時代の厳しさをひしひしと感じたであろう滝川一益の歴史や逸話をごゆるりと~。
もしかしても忍者かも?滝川一益という謎が多い信長の家臣
滝川一益の若かりし頃は実にミステリアス。
織田信長に仕えるまで何をしていたのか、どんな活躍をしてきたのか…なんて事はあんまり知られていないようです。
が、甲賀出身なのは確からしく、実は滝川一益は忍者で忍術をマスターしちゃってたりするんじゃないか?!なんて言われております。
ワシは鉄砲の名手であったと言われているんだ。
色々と鍛錬積んできた凄腕の忍者であった可能性も無きにしも非ず…!
甲賀といえば忍者!ってだけでイメージつけられてるような気もしますが、真相は謎…。
いつ頃から、どういった経緯で織田信長の家臣になったのかは、これまたよく分かってないそうです。
鉄砲の腕前をかわれて織田家に仕えるようになった…との噂であります。
それ以前に関しては一族の人間を殺害して出奔したとか、
博打大好き人間で日頃の行いが悪すぎ、一族から追放されて尾張の知人の所へ行ったとか言われているようなので、若い頃は相当やんちゃしてた系の人物だったのは間違いないはず。
ろくでもねぇな。
何はともあれ、1560年の時点で織田信長に伊勢攻めのアドバイスをしたりしていたらしいので、早い段階から織田家でバリバリ活躍していた模様。
そしてこの年にあった桶狭間の戦い(織田信長VS今川義元)の後、織田信長と三河の大名・松平元康(徳川家康)が同盟を結ぶのですが、
この時、使者となって同盟の交渉を行ったのが滝川一益でした。
清州同盟ってやつだね。
こんな大役を任されるってことは、信長様からの信頼は抜群だったってことよ。
滝川一益、伊勢攻略戦で頭角をメキメキ現してゆく
1567年の伊勢攻略では滝川一益が大活躍!
伊勢の北部は53のお家からなる豪族達によって統治されておりました。
そんな北伊勢を攻略するのに、一益は先鋒を任されます。
そこで一益は敵武将を調略したり、城を攻め落としたり…と北伊勢の諸将を帰服させ、手に入れた城の守備も務めるなど順調に仕事をこなしていきました。
そしてその後、織田信長本人も北伊勢へ。
信長は三男の信孝を神戸氏に、弟の信包を長野氏に養子入りさせるなどして、有力者を織田家にとりこみつつ北伊勢を制圧しました。
北の次は南!
1569年、南伊勢五群を支配している北畠氏と対立。
大河内城の戦いと呼ばれる戦が起こるのですが、滝川一益もこの戦に参加しております。
戦の詳細はわかっていなみたいですが、織田軍はなかなかに苦戦していたそうです。
この戦は和睦して終わらしたぞ。
信長様は次男の信雄を北畠氏に養子入りさせ、北畠氏を取り込んだのだ。
この後…
伊勢攻略おつ!
一益の働きもあって上手くまとまったわ!
そのままそっち方面の守りは一益に任せた!
ということで、一益は北伊勢を本拠地として伊勢方面を担当することになりました。
織田信長に大貢献!滝川一益の輝かしい戦歴
伊勢を制圧したはいいものの、この時期、織田信長は非常に敵が多い状況でありました。
各地の有力者たちが打倒信長を掲げて手を結び、信長包囲網なるものを形成していたのです。
近江の浅井氏、越前の朝倉氏、本願寺…
三好氏や将軍、武田氏なんかと敵対していて大変だったのよね。
1570年、そんな状況の中で石山合戦(本願寺VS織田信長)が勃発。
各地に存在する本願寺の門徒達が打倒信長を掲げて立ち上がり、伊勢でも門徒達による一揆が起こります。
一向一揆ってやつだね。
その時、一益はというと…
桑名城に一揆勢が押し寄せてきた時には籠城して応戦、一揆勢の相手をしつつ時には尾張の守備にあたったり、各地に戦に出向くなどとても忙しい日々を送っておりました。
1573年は一乗谷城の戦い(織田軍VS朝倉軍)に参戦。
戦は織田軍の猛攻に追い込まれた朝倉義景が自害!
織田軍が勝利したぞ。
1574年は3度目の伊勢長島一向一揆。
一益は織田信雄の副将として参戦し、九鬼嘉隆らとともを水軍を率いて一揆衆と戦いました。
一揆衆の要塞を海上から包囲、織田軍を援護したぞ。
織田信長の命令により、逃げ惑う一揆衆はことごとく殺害されたとのこと…。
伊勢の一揆衆は滅亡し、一益はこの功績によって北伊勢五群に長島城を与えられました。
そしてまだまだ一益の戦いは続きます。
1575年は長篠の戦い、武田勝頼との戦で三河へ。
同じ年、越前の一向一揆で越前へも遠征しております。
1576年は天王寺の戦い、本願寺勢との戦で摂津へ。
1577年、雑賀衆との戦で紀伊国へ。
ん~、出張多いね!
いずれの戦も織田軍が勝利しているぞ。
1578年は第二次木津川口の戦い。
摂津へ遠征し、九鬼嘉隆と共に毛利の水軍と戦いました。
毛利軍
本願寺が織田軍に包囲されて困ってるって!
武器や兵糧の援助に行くのだ!
という毛利軍をぶっ潰して阻止するのが目的なのですが、戦を始めるにあたり信長から
2年前の木津川口の戦いでは敵の水軍の攻撃で織田軍は壊滅的被害を受けた。
今回は最強の船作って絶対勝ってくれよな!
とお達しがあったので、この戦では大砲、鉄砲装備、鉄板張りで敵の火矢を跳ね返す戦闘力の高い大きな軍船、俗にいう鉄甲船が作られました。
記録には『九鬼嘉隆が6隻の黒船、滝川一益が1隻の白船を率いて…』ってあるから、ワシが乗ってたのは鉄甲船じゃなかったかもしれん。
鉄板張りだったら白船なんて書かれなくない?
なにはともあれ、この戦は織田軍の圧勝。
一益達は毛利軍が本願寺に武器や兵糧を届けるのを無事阻止しました。
ここでの勝利はでかかったぞ。
味方から支援を受けられなくなった本願寺は追い詰められていき、この2年後に降伏するのである。
そして他にも1579年の有岡城の戦い(VS信長を裏切った荒木村重)では織田軍の主力として参戦し、砦の守将を調略して有岡城の守備を崩壊させる…といった活躍を見せております。
なかなかの活躍っぷりでしょう。
『先駆けは一益、殿も一益』なんて謳われるだけある。
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怒涛の1582年!滝川一益の人生のピークと終わりの始まり
1582年…
数々の敵に打ち勝ってきた織田信長は、かねてより敵対していた武田氏の征伐に乗り出します。
この戦で一益は河尻秀隆と共に軍監を務め、総大将となった織田信忠を補佐するという重要なポジションにつきました。
そして戦が始まる前、
ワシが出るまで軽はずみな行動はとらないように。
先々行っちゃダメって信忠に伝えてね。
と信長から命令を受けるのですが、
信長様の言いつけ守って慎重にいきましょうね。
え、無理(´з`)
信忠がお構いなしに攻めていったので、甲州征伐開始からわずか1ヶ月あまりで武田氏は滅んだのでした。
信長様の命令は守れなかったけど、我ら信忠軍は武田勝頼を天目山にて仕留める事ができたのだ。
大手柄でございますよ。
勝手に戦を進めてしまった事に関しては、お咎めはなかったようです。
そして戦後、
手に入れた武田の領地は頑張ってくれた皆で分け分けするぞ!
一益には上野一国と信濃二郡!!
一益は一国の主に大出世!
するのですが…
領地は今のままでいいので…
ご褒美は茶器がいいですぅ(;´∀`)
国替えが嫌だったらしく、代わりに茶器を所望したそうな。
しかし、
ダメ!転勤は決定よ。
向こうにはまだまだ油断ならん大名達がいるんだし。
一益レベルの武将じゃないと任せられないんだから~。
一益の希望は受け入れられず、泣く泣く上野へお引越ししたのでした。
これに至っては
めっちゃ遠いとことばされた。
地獄だわ。茶の湯の冥加は尽き候。
といった内容の手紙を友人に送るほど、嫌だった模様。
欲しかった名物の茶器は手に入らなかったし、趣味も存分に楽しめない環境…。
そりゃ落ち込むわ~。
なにはともあれ一益は関東八州の御警固、関東の儀御取次なる重役につき(つまるところ関東管領)、関東方面の司令官的なとても偉い人のポジションについたのでした。
この時、日本の中心部を広く制圧し、勢力を拡大させた織田信長は最強といえる存在だったわけで、
北条氏、佐竹氏、蘆名氏、伊達氏…といった大名達は、織田家と良好な関係を築くために一益を通して信長へ贈り物を送ったりしていたそうな。
上野への転勤は萎えたけど、なんやかんや外交頑張ってたんだよね。
上手くいけば、関東方面の名だたる大名達がワシの傘下に入る日がくるはず…!
信長の未来も明るいし、信長に信頼されている一益の未来も明るい!
しかし上野にきてからわずか2ヶ月あまりで状況が一変する大事件が起こります。
そう、本能寺の変でワシが死ぬ…!!
戦国時代の一大事件、本能寺の変!一益、関東から脱出す
1582年6月に起こった本能寺の変により、織田信長はこの世を去りました。
武田勝頼が滅んでわずか2ヶ月…
武田(敵勢力)の領地だった甲斐・信濃・上野は織田家の武将達が入ってきたばかりで、まだまだ統治がうまくいっていなかった状態でした。
近隣の大名も国人達も信長様のカリスマ性と恐怖で従ってくれてたようなもんだし。
信長様が死んだのが周囲にバレたら…
必ず手のひら返してくるヤツがでてくるぞ。
信長の死が世に知れ渡るのは時間の問題。
この時、中国地方で戦をしていた羽柴秀吉なんかは敵に信長の死を隠したまま上方へ戻るのですが、一益は
ワシは上方へ戻るぞ。
明智光秀を倒し、信長様の仇を討たねばならんのじゃ。
この混乱に乗じてワシの首をとろうと思うヤツがいるなら、かかってくるがいい。遠慮はいらん。
と、あえて上野の諸将に信長の死を公表し、預かっている人質も解放すると言いました。
これを聞いた上野の諸将は
一大事なのに正直に話してくれたうえ、人質まで返してくれるとは…。
一益殿は当代無双の義士だ。
上洛する時は我々もついていきます!
と感じ入り、織田信長に臣従する形で同盟を組んでいた北条氏も
北条氏政
聞いたよ、本能寺で信長さんがやられたって。
僕たち北条は変わらず君たちの味方だからね!
と言ってくれました。
が、北条氏政・氏直親子らはあっさりと裏切って5万を超える大軍で上野へと侵攻してきました。
そうなるとは思ってた。
北条氏は前から織田政権に不満がありげだったからね。
一益は1万8000の兵で応戦するも、神流川の戦いと呼ばれる戦で敗れてしまいます。
一益についてきてくれた上野の諸将は北条に降り、一益はもともとの領地である伊勢長島へと逃げ帰りました。
家臣は大勢討ち死にしてしまったし、周囲の情勢が不安定な中で帰還するのは大変だったよ…。
清須会議間に合わず。滝川一益、戦国時代の荒波に飲まれて沈む
関東を脱出し、一益が本領の伊勢長島に到着したのが7月1日だったとのこと。
本能寺の変が起こったのが6月2日、その間に上方では羽柴秀吉を中心に織田家家臣達が明智光秀を倒し(山崎の戦い)、事件は一件落着となります。
そして羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興によって織田家の後継ぎを決める話し合い(清須会議)も行われました。
一益の知らない所で織田家家臣たちの今後を決める重要なイベントが起こっていたのですが、
一益は一益の敵に時間を割いてしまって一連のイベントに参加できなかったという…。
肩身が狭い…。
ハミられてる感もあるし悲しい…。
仕方ないとはいえ、このせいで滝川一益の織田家における地位は以前とは別のものになってしまいます。
台頭してきたのは明智光秀を倒し、清須会議でも意見を勝ち取った羽柴秀吉。
なんと、一益は信長の葬儀に出させてもらえなかったそうです。
噂によると秀吉の指示だったとかなんとか…。
こういった事もあってか、その後、羽柴秀吉(織田信雄支持)と柴田勝家(織田信孝支持)が対立した時に一益は勝家の味方につきました。
織田信長の死から一年も経たずして、両者の間で戦が起こります。
織田家の当主は三法師様って決めたけど…
やっぱまだ子供だし、大人になるまでは信雄様に頼もっかな~。
みたいな。
信長の三男・信孝
え?私は?
なに勝手に決めてるの?
なんで秀吉が織田家を仕切ってるの?
気に食わない!
そうでしょうそうでしょう。
許せないでしょう。
こりゃ戦案件だと思いますよ。
ワシもそう思う。
てな感じでアンチ秀吉勢が奮い立つのですが、越前の大名である柴田勝家は雪の時期は地元を動く事が難しかった為…
勝家が動けない間にやれる事やっとかな!
その間に秀吉が挙兵し、美濃の織田信孝を攻めて降伏させました。
これがきっかけで秀吉の味方につく武将もいましたが、一益は態度を変えず。
逆にこの後、秀吉に味方している伊勢の武将の城を攻め落とすなどして戦果をあげております。
が、秀吉が黙ってこれを見逃すわけもなく。
一益を倒すべく7万ちかい大軍で伊勢に攻めてきました。
7万て!多いわ!
ヤバイ!
ヤバイけどワシ、持ちこたえてる~!
そうこうしてる間に…
味方が秀吉に攻められて大変じゃい。
雪のピークは去った!いざ!
満を持して柴田勝家が出陣し…
なに?
勝家がこっちへ向かってる?
伊勢は他の者に任せてワシは勝家の所へ行くぞ!
近江で『賤ヶ岳の戦い』と呼ばれる戦が起こります。
その間、一益は伊勢の長島城で秀吉が残していった2万の軍勢を相手にしていたのですが、勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れて自害し、織田信孝も勝家の敗北のあおりを受けて自害に追い込まれたので、しばらくして一益も秀吉に降伏する事になったのであります。
領地は全部没収されました。
ワシは頭を丸めて武士を引退、越前で大人しくしていたよ。
関東管領たる重役を務めるほどビッグな大名だったのに、織田信長の死からわずか1年ほどで全て失うなんて波乱万丈すぎますね。
戦国時代って本当に大変な時代ね。
滝川一益、復活。その後はひっそり最後を迎える
武士を引退して慎ましく生活していた一益ですが、その生活も長くは続きませんでした。
織田信雄
秀吉のやつ…
私を当主にと支持してくれたのに、自分が天下人のように振舞っている!
このままでは織田家が秀吉に飲まれてしまうよ!
助けてよ家康さーん!
織田家の盟友、家康は信雄殿の味方ですぞ~。
賤ヶ岳の戦いから1年も経たない間に秀吉と信雄が決裂し、信雄・家康VS秀吉という構図で敵対関係ができあがってしまったのです。
で、
と、徳川家康!!
これは強敵だわ!
一益殿、戻ってきてワシに協力してくれんかね~?!
はい。
一益は秀吉に味方につくよう求められ、あっさりと復帰したのであります。
そして始まったのが小牧長久手の戦い。
戻ってきてから一益は、伊勢方面にて敵側の武将を調略したり、城を奪うなどして秀吉側が有利になるよう働きました。
が、その後、敵に城を奪い返されて追い詰められてゆき…
最終的には蟹江城にいるところを家康・信雄連合軍に包囲されやむなく降伏、和睦を結んで城を明け渡したのであります。
…それにもかかわらず、一緒に蟹江城で戦っていた前田長定が城を去る途中に殺害されてしまうという事件が起こったので、一益は逃げるようにして伊勢へ帰ったのでした。
前田長定はこの戦が始まる前は信雄に仕えてたんだけど、私がこっちの味方につくよう誘ったんだよね。
信雄らはそれが許せなかったんだろうね…。怖い怖い。
小牧長久手の戦いは最終的に、秀吉が得する形で和睦を結んで終わりました。
結果的に秀吉はハッピーなわけですが、蟹江城での敗戦は目を瞑ってもらえず…
蟹江城ではよくもまぁ…。
伊勢に6万もの兵を集めて出撃準備してたのに、蟹江城を奪われたせいで計画が台無しになったんだからね。
その責任をとって戦に同行していた一益の長男・一忠が追放処分となりました。
一益は髪を落として出家、隠居料として秀吉から3000石を与えられております。
そして滝川家は次男・一時が継ぎ、1万2000石でそのまま豊臣家に仕えることとなりました。
信長様がいなくなってから何もかも上手くいかない感じ…。
さすがに疲れちゃうよね。歳も歳だし。
戦国武将的にはなんだか尻すぼみで寂しい結末になってしまいましたが、晩年は茶会に秀吉を誘ったりしていたなんて逸話があるみたいなので、秀吉との関係も悪くはなかったのだと思うし、戦生活から解放されて心穏やかに過ごしていたことでしょう。
晩年の詳細はわからないけど、小牧長久手の戦いから約2年後に62歳でこの世を去りましたよ。
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