信長の息子、織田信忠!その活躍や逸話をゆるりと解説
生涯 | 1557(1555年とも)~1582年 |
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出身 | 尾張(愛知県) |
全盛期 | 天下人状態だった織田信長の後を継いだ |
有名な親族 | 織田信長(父)、吉乃(母)、織田信雄・信孝(弟)、三法師(織田秀信:嫡男)、織田長益(叔父) |
思い出の戦 | 高遠城の戦い、本能寺の変など |
織田信忠といえば | あの信長の後継ぎ、信忠が生きていれば…と語られがち、能楽にハマリすぎて信長に怒られた事があるんだってさ |
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織田信忠の歴史、逸話などゆるりとご紹介
日本人が大好きな織田信長!
…の嫡男が織田信忠!
信忠は戦でも沢山武功を挙げてきたし、普通~にビッグな大名であるんだけど、パパのネームバリューがでかすぎて一般的にはあんまり語られる事がないかも??
将来有望だったのに若くして亡くなったのが惜しまれる!
未知の可能性を秘めているのが今回の主役、織田信忠よ~~ッ!!
織田信忠のお母ちゃん、幼名について
織田信忠は信長の正室で有名な濃姫の子供ではなく、側室の吉乃(生駒の方)の子供と言われております。
※吉乃が生みの親って確証がないらしく、母親については諸説あるみたい。
吉乃は信長最愛の女性、しかも待望の嫡男誕生!…という事で、普通なら可愛くて愛おしくてたまんないはずなのですが、信長は生まれたばかりの信忠を見て
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うわっ。変な顔。
という理由で信忠に奇妙丸(きみょうまる)なんてキラキラネームをつけてしまいました。
命名、奇妙丸!!って披露したときの家臣達の反応が気になるところです 。
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昔は子供の厄除けの為にわざと変な名前つける事があったんだよ。
憑りつくヤツがドン引くぐらい変な名前をね。
ちなみに、信長には結構な数の側室がいて結構な数の子供が生まれる事になるのですが、ブッちぎりで優遇されていたのがこの信忠でした。
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私が優遇されていたのは嫡男だからという理由だけではないんだからねッ。
織田信忠は信長の息子ってだけで有名なわけではないっ!!
織田信忠が生まれてから約3~5年後の1560年、織田信長が桶狭間の戦いにて今川義元を撃破。
それからというもの信長はグイグイ勢力を拡大し、本能寺の変で亡くなる直前には
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もはや敵ナシ天下人待ったナシ!
というところまで上り詰めます。
信長の時代に活躍してきた織田家家臣といえば…パッと思いつくのは、やはり羽柴秀吉とか柴田勝家とか明智光秀とかメジャーな武将達…
そしてどうしても世間一般的には織田といえば信長!!となってしまうし、信忠の活動期間が長くはなかった為、あまり信忠の活躍が注目される事がありません。
が、何気に信忠は重要なポジションにつき、しっかりと織田家の為に働いておりました。
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パパの御威光に甘えてぬくぬく過ごしていたと思ったか?
違うんだな!!それが!!
戦デビューしてからトントン拍子!織田信忠は織田家の期待の星
織田信忠の初陣は1573年の小谷城攻め(浅井長政との戦)、17歳ぐらいの時でした。
ちなみに信忠はこの時期に元服。
奇妙丸という名前とお別れし、信重というカッコイイ名前に変わったそうな。
翌1574年には石山合戦、伊勢長島一向一揆との戦に参加。
伊勢長島の戦では、信長とは別で織田家家臣達が信忠の配下につき、信忠軍が形成され織田軍の一翼を担ったといいます。
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戦デビューして約1年、早くも一軍の大将に!
パパの私への期待が伺えるな!
さらに翌1575年、信忠は長篠の戦い(織田・徳川連合軍VS武田軍)にも参加。
この長篠の戦いでは織田・徳川連合軍が大勝しております。
でも信忠自身はここでは目立った活躍がなかった模様。
が、この後、武田氏のものとなっていた美濃の岩村城を信忠軍で攻め落として武功を挙げて おります。
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この戦では夜襲をかけられたところを、私自ら先駆けして敵と戦ったのだ。
織田軍は1000以上の兵を討ち取ったぞ。
そしてこの後、信忠は信長から尾張・美濃を与えられ岐阜城を居城としました。
さらに信長から家督を譲られております。
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敵を順調に蹴散らし、大敵であった武田にも戦で勝ってワシの天下統一がいよいよ現実味をおびてきた!
ネクストステージへ進むぜ!
ワシは天下統一事業に専念する故、織田家の事は信忠に任せたし協力頼むぜ!
という事でしょうかね。
なんにせよ完全実力主義で人を評価する信長が二十歳前の信忠に長年本拠地だった尾張や織田家を任せるなんて、余程信忠の事を評価して信頼していたんだと 思います。
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ちなみ城を出たワシは翌年、近江に安土城を築くのである。
その後も信忠は紀伊の雑賀衆との戦、信貴山城の戦い、有岡城の戦いなどに参加して武功をあげております。
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信貴山城の戦いでは私が総大将を務め、明智光秀や羽柴秀吉、丹羽長秀といった織田家臣団のスター達を従えていたのだよ。
信長もびっくり!織田信忠が大活躍しすぎた甲州征伐
天正十年(1582年)2月…
織田信長は三河の徳川家康、相模の北条氏政らと結束し、各方面から武田勝頼の領土である甲斐・信濃へと侵攻を開始しました。
そう、俗にいう甲州征伐。
そしてここで織田軍の総大将を務めたのが、織田信忠!
かつて戦国最強と謳われ、信長最大の敵と恐れられた武田氏…
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なにやら凄い戦になりそうだぜ!
と思っちゃいますが、この頃すでに武田は落ち目であり、勢い右肩上がりの織田(しかも徳川・北条もいるし)と戦うのは非常に厳しい状態でありました。
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THE・END…。
凄まじい規模の弱いものイジメ…!!
なので、武田の武将達は勝頼を見限って織田家に寝返ったり、戦わず城を明け渡したり逃亡したり…とグダグダ。
こんな感じなので、信忠は信濃の伊那から進軍を開始すると、楽々と武田領を突き進んでいったといいます。
そして信忠軍は武田勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城に到着。
サクっと城を包囲した信忠は、盛信に降伏するよう使者を遣わすのですが…
仁科盛信
我らは不義の臆病者じゃない。
かかってこいや。
といった返事とともに、使者が耳鼻を削がれて帰ってきました。
当然の如く信忠は激怒、早々に城攻めを決行しました。
高遠城での戦いは、
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信忠軍5万VS城兵3000!
圧倒的兵力差ッ!!
武田オワコン、援軍望みナシ!
織田軍強い、余裕!!
といった勝ち戦ではあったのですが、討死上等の覚悟で戦っていた敵は強く、信忠軍が苦戦するシーンもありました。
そんな戦況を目にした信忠は、いてもたってもいられなかったか総大将でありながら自ら1000の兵を引き連れて出撃。
そして信忠は城の裏門に回り、柵を破って堀の上によじ登ると
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いけオラーッ!!!!
と(言ったかはわかんないけど)兵達に号令をかけ、城内へ突撃させたのでした。
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私の指揮のもと、兵達は怒涛の勢いで敵を倒していったのだ。
普通にカッコ良いエピソードだけど、天下人最有力候補の織田信長の後継ぎであり、この戦の総大将なのに自ら先頭を行くという危険な事をしていたのはいかがなものか。笑
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(この勝ち気な感じはパパ似か…?!)
なにはともあれ、こういった信忠の活躍もあって高遠城はものの2日で落城したのでした。
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敵将の仁科盛信は切腹して果てたぞ。
この後、織田軍は武田勝頼を追って甲斐へと進み、『天目山の戦い 』と呼ばれる戦で勝頼を自害へと追い込みました。
信忠率いる織田軍の大勝利!
甲州征伐開始からわずか一か月あまりで武田氏は滅んだのであります。
ちなみにこの甲州征伐、本当は信長も後から出陣する予定だったそうです。
信長は戦を始めるにあたり、
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ワシが出るまで軽はずみな行動はとらないように。
先々行っちゃダメって信忠に伝えて。
と家臣に伝えていたそうですが、信忠がお構いなしにガンガン侵攻していっちゃったもんだから予想外に早く戦が終わっちゃったという…。
なにはともあれ、武功は武功。
この後、信長は怒るどころか信忠の活躍を褒め称え実質天下人の地位を信忠に譲ることを宣言したそうな。
ちなみに甲州 征伐後、信忠の与力にある武将達に甲斐・信濃が分配されました。
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部下の領土は私のもの。
…でしょ?
ということで実質、信忠の支配域は尾張・美濃に加えて甲斐・信濃にまで広がったのでした。
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パパの御威光だけで成り上がったのではないのがカッコイイであろう?
私自らリーダーシップを発揮し、戦場で活躍してきたんだもんね。
ここまで順調!
信忠の…織田家の未来は明るい!
が、
いつ何が起こるかわからないのが人生。
武田滅亡からわずか3ヶ月後、まさかの大事件が起こります。
そう、本能寺の変です。
織田家家臣・明智光秀が急に謀反を起こして信長を倒しちゃったという、超有名な事件が起こるのであります。
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皆知ってると思うけど、信長信忠親子は本能寺の変で亡くなったよ
本能寺の変が起こる直前、織田家の有力家臣達は中国地方、北陸地方などに各自遠征中でありました。
信長の天下統一事業も佳境、全体的に優位に立っていた織田軍ですが、中国地方で戦をしていた羽柴秀吉から
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殿ー!
援軍プリーズ!
と要請があったため、信長は秀吉の為に援軍を派遣することを決めます。
そしてまず、信長は中央に残っていた明智光秀を先に秀吉の元へ行かせました。
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ワシら親子は後から行くから。
頼んだぜ。
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織田家の頼れる家臣、光秀さんなら安心して任せられるぜ。
光秀を送り出した親子は、信長は本能寺、信忠は妙覚寺…と違う場所で寝泊まりをするのですが、
天正十年6月2日…
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援軍に向かうフリして戻ってきました。
今なら信長親子の守備も薄い…!
やってやるぜ。
信長・信忠親子は1万を越える軍勢を引き連れた明智光秀に襲われ、奮戦むなしく多勢に無勢で無念の死を遂げたのであります。
まさかの謀反…
明智光秀が本能寺を襲撃したのは早朝、信長は外の騒音、妙な気配に目を覚ましたといいます。
そして本能寺周辺を大軍に囲まれていると知った信長は
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城介(信忠のこと)が別心か?!
と、まず初めに信忠を疑ったそうな 。
このエピソードが本当なら信長は実の息子、しかも自分の後継ぎとして誰よりも優遇している信忠を完全には信用していなかったという事になっちゃいますね。
しかし信忠は本能寺の変が起こった後、織田家の名誉の為に明智軍と最後の最後まで戦い、信長に殉死しております。
親子の気持ちのすれ違い、ちょっと切ない。
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親兄弟で争ったり、時には命のやり取りをすることもある戦国時代…
疑いたくなる気持ちも分かるけども。
織田信忠は本能寺の変後、生き延びる事ができた??
明智光秀は本能寺にいる信長を死に追いやった後、すぐ近くの妙覚寺に泊まっていた信忠のもとへと兵を進めました。
その時、信忠はというと…
村井貞勝(織田家家臣、本能寺向かいの邸宅にいた)
凄いもの見ちゃったー!!
本能寺で明智光秀が謀反ー!!
信長様がー!!
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なんだってー?!
今すぐ本能寺へ行ってパパを救うぞ!!
村井貞勝
もう手遅れなんですぅ(:_;)
明智の軍勢がここにやってくるのも時間の問題!
ここより守備力の高い二条御所に移って奴らとの戦いに備えましょう!!
信忠家臣
いや、今の我々じゃ兵力不足だし安土へ戻って再起を図るべきかと!
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こんなとんでもない謀反を起こすやつだぞ?!
どこに敵の備えがあるかわかったもんじゃない!
逃亡中に討たれでもしてみろ、それこそ無念で死んでも死にきれんわ!
圧倒的に不利な状況でしたが、事件を知らせてくれた村井貞勝の助言のもと、明智光秀と徹底抗戦する構えを見せました。
事件を聞いて馳せ参じた側近の数を合わせ、信忠軍は1500ほど。
(兵の数は諸説アリ、1500より大分少なかったとも。)
信忠軍はやってきた明智の大軍に弓や鉄砲で応戦するのですが、やはり多勢に無勢で追い詰められてしまいます。
敵が御所になだれ込んでくるといよいよ信忠軍は窮地に陥るわけですが、信忠はそんな時も怯むことなく自ら武器をとって果敢に戦い、18人程斬り伏せたといいます。
しかし、戦況がひっくり返るわけもなく…
織田長益(この時信忠の配下にあった信長の弟)
もはやこれまで。
敵に討たれて恥をさらす前に、ご自害されるが良いかと。
(私は逃げますがねっ。)
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致し方なし。
私の首は敵に見つからないようどっかに埋めてくれ。
信忠は無念の切腹、26歳(ぐらい)という若さでこの世を去ったのでした。
明智光秀に負けてしまった織田信長・信忠親子ですが、二人の首は行方不明のままで光秀の手に渡る事はありませんでした。
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ぐぬぬ。
信長親子の首をゲットしていたなら、私はもっと上手くやれてたはず…!
その後、織田信忠が生きていれば…織田信忠が生きていれば…
信忠の死後…
織田家家臣団の話し合いによって、織田家は信忠の子・三法師が継ぐ事になりました。
しかし三法師は当時まだ子供だったし、他の信長の息子達 も織田家を引っ張っていく力が無かったので羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田家の実権を握り、後に織田家は秀吉の政権下に置かれる事になってしまいます。
本能寺の変の後も信忠が生きていれば織田家当主は当然信忠だったわけで、秀吉の出方も大分変わっていただろうしこんな事にならなかったはず…!
と、信忠が亡くなってしまった事が本当に悔やまれるわけです。
なんたって信忠に自害を勧めたとされる織田長益はどさくさに紛れて脱出、逃亡に成功して生き延びているんだから、信忠だってきっと生き延びる事ができたはず…!
しかしながら、信忠と長益では立場が違うので致し方なかった事なのでしょう。
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逃亡するにも道中どこに伏兵が潜んでいるのか分かったもんじゃないし。
それに光秀の他にも織田家を裏切った家臣がいるかもしれない…。とか考えちゃうでしょ?
何より逃亡中に捕らえられでもして首を晒されるようなことになれば…
織田家当主がそんな惨めな最後を迎えてしまっては、家名に傷がついてしまう!
一か八かで逃げるより、華々しく戦って散ったほうがカッコイイっしょ。
これが武士の美学、覚悟じゃい!!
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楽しんでいただけたらイイネ!