石田三成のお茶の逸話!豊臣秀吉との出会いとは?
石田三成は近江の土豪(小さな土地を支配している一族)の次男であり、秀吉とは1574年(1577年とも)に出会ったとされています。
そして有名なのが2人の出会い『三献の茶』!
これは言わずもがな、石田三成のできる男感が伝わってくる有名なエピソードがあります。
ある日、秀吉が鷹狩へ出かけていたときのこと・・・。
その帰り、喉が渇いた秀吉はとあるお寺に立ち寄りお茶を所望します。
寺の小姓はまずお茶碗いっぱいに、ぬるめのお茶を入れて出しました。
ヘイお待ち!
この寺小姓こそ若かりし頃の石田三成。
秀吉は三成が出してくれたお茶を一気に飲み干しました。
美味い!もう一杯!
ヘイ喜んで!
次に三成は、さっきより小さめの碗に少し熱めのお茶を出します。
うんめぇ~!
もう一杯!
秀吉はそれを飲み干すと、もう一杯お茶を所望しました。
ハイヨーッ!
そして三成が三杯目に出したのが、少量の熱々のお茶。
一杯目はとにかく喉が渇いているとの事で、沢山のお茶を飲みやすい温度で出し・・・
喉の渇きを潤したところで二杯目はやや熱めのお茶を・・・
そして三杯目はお茶をじっくり味わってもらう為、熱々のものを少量・・・。
こやつ、できる・・・!!
運命の出会い…!
石田三成の気づかいに何か非凡なるものを感じた秀吉は、すぐに自分の小姓として召し抱える事にしたのでした。
秀吉の小姓からスタートした石田三成、その後は秀吉の秘書的なポジションにつき、メキメキと頭角を現していくのであります。
ちなみに、この『三献の茶』のエピソードはあんま信憑性がないんだって。
三成が寺の小姓だったことすら怪しいらしいよ。
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石田三成、忍城を落とせず…。戦下手って言わないでっっ
石田三成は秀吉に仕えてから数々のいくさに従軍してきましたが、実はこれといって目立った活躍やエピソードがありません。
武闘派じゃなくてエリート官僚だからね。
でも戦場でのエピソードが全くないわけではないのだ。
1590年、秀吉は最後まで豊臣家に反抗し続けた関東の北条氏を攻め滅ぼして天下人となります。
この戦で秀吉は総勢22万もの兵力を動員!
北条氏の本拠地・小田原城を包囲する他、北条一族の守る城を次々と攻略していきました。
ちなみに対する北条は、総勢5万6千ほどの兵力であったと言われているぞ。
この北条攻めで石田三成は、武蔵国の忍城(おしじょう)の攻略を担当しておりました。
この忍城の周辺は沼沢地であったため攻めづらく、豊臣軍はかなり手こずっていたようです。
そこで石田三成は水攻めを用いてこの忍城を落とすことにします。
かつて秀吉が備中高松城で行ったように、近辺の農民に米やお金などの報酬を与えて水攻めの為の工事を手伝わせました。
そしておよそ28kmにも及ぶ堤防が完成。
満を持して水攻めが決行されるのですが、予想したほど忍城にダメージを与えることができませんでした。
それどころか逆に土手が崩れて豊臣軍に被害がでるなど散々な結果となってしまったようです。
困ったなぁ。
攻めるの難しいし、忍城のやつら全然降伏する気配もない・・・。
なんて攻めあぐねている間に、ついに北条氏が降伏を宣言したので戦が終わりました。
北条側の守る城で唯一落城しなかったのが忍城であり、忍城攻めの担当であった石田三成はこの一件でちょいと戦下手というイメージがついてしまったという…。
忍城の水攻めを提案したのは秀吉様だったとも言われているんだよね。
なにはともあれ、北条氏を降した秀吉はついに天下人たる存在となりました。
石田三成はというと、近江佐和山19万4000石を与えられ、安定した地位を築いておりました。
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豊臣政権で石田三成は重要な役職についていた
豊臣秀吉が天下人となると、石田三成は五奉行という役職につき政務を行っておりました。
ちなみに五奉行のメンバーは
石田三成
増田長盛(ましたながもり)
前田玄以(まえだげんい)
浅野長政(あさのながまさ)
長束正家(なつかまさいえ)
となっています。彼らはみな、秀吉の直接の家臣であります。
※ちなみに五奉行の上にある役職が五大老。五大老は五奉行と違って、全国の有力大名で構成されている。徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝が五大老のメンバー。
秀吉が天下人となってから、日本国内ではしばらく平和な日々が続くのですが、秀吉は次のステップアップとして海外進出を計画・・・。
朝鮮・明(中国)を征服するぞっ!ワシは明の国王になる!
この馬鹿げた妄想を現実にする為に、海外へ兵を出す事を決めたのです。
石田三成は、最後の最後まで
無益な戦にございます。
考え直して下さい。
と反対していたようですが、晩年の秀吉の暴走は誰にも止める事ができませんでした。
そしてこの朝鮮出兵で石田三成は大名たちのサポート役として後方支援をしていたのですが、
現場で戦う武将達と揉める事も多く、豊臣家家臣達の中で派閥ができるきっかけとなってしまいました。
この朝鮮出兵での仲間割れは、少なからず関ヶ原の戦いで西軍が敗北する要因となってしまったのだ・・・。
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石田三成、実は100万石の大名になれていた?!
石田三成の最盛期の所領は近江佐和山19万4000石ですが、実は石田三成、秀吉からもっと多くの所領を提案されていました。
しかし三成は、
九州の筑前・筑後に33万石!
どうだね??
ワシが九州へ行ってしまったら誰が秀吉様を側で支えるのですか!
お給料は少なくていいので、秀吉様の近くで働きたい!
という理由で断っちゃいました。
そしてこんなエピソードもあります。
晩年、秀吉が病床に伏せていた時のこと・・・
秀吉は石田三成と増田長盛に
お前たちに100万石やろう。
お前達なら安心してワシの亡き後の日の本を任せられる。
と、こんな事を言っていたそうです。
またまたそんな。
ありがたいお話ですが恐れ多い事です。
冗談なのか本気で言っていたのかは謎ですが、秀吉が石田三成(増田も)の事をかなり信頼していたのが伝わってきますね。
↓そしてさらにその後・・・
秀吉亡き後、徳川家康と戦をする事を決意した三成は、
家康は250万石の大大名・・・。
ワシには家康と対等に戦える力がない。
あの時、秀吉様の申し出を受けて100万石の大名になっていれば不自由なく家康と戦えたであろうに・・・。
と、この時ばかりは自分の所領の少なさを嘆いたそうです。
三成は自分の知行の半分、それ以上を与えて家臣を召し抱えたという逸話がありますし、近江佐和山19万石の大名になってからも、贅沢などせず日々の暮らしは質素なものであったそうです。
出世していっぱいお給料もらってビッグになるぞーっ!!
なんて欲があまりなかったように思われます。
もっと三成がギラギラしてて権力もってたら、ワシもうかつに豊臣家に手出しできなかっただろうね。
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