豊臣秀吉の年表を簡単にまとめてみた

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豊臣秀吉は言わずと知れた天下人!

農民出身という低い身分からスタートして頂点に上り詰めた、日本の歴史上で一番の偉業を遂げたと言ってもいい人物ね!


 

ここでは豊臣秀吉が生まれてから天下人になるまでの流れ、そしてその後の豊臣家の歴史をできるだけ簡単&分かりやすく年表にまとめてみたわよ~!

 

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1537年 尾張にて誕生。
1554年 秀吉18歳、織田信長に仕える。

若かりし頃は木下藤吉郎と名乗っていた。

1561年 ねね(北政所)と結婚。
1566年

織田信長の美濃攻略戦に参加

『一夜城』の名で知られる『墨俣城(すのまたじょう)』を築城。

ここでの活躍は後の出世につながる功績となる。

1570年 金ヶ崎の退き口

織田信長が越前の朝倉氏を攻めてる最中、味方であるはずの浅井氏に裏切られて挟撃されそうになったので撤退するのだが、

その時に秀吉は明智光秀らと共に殿を務め、無事に信長を撤退させることができた。

 

姉川の戦い

織田信長・徳川家康連合軍VS浅井長政・朝倉義景連合軍の戦いに秀吉も参加。織田・徳川連合軍の勝利。

1573年

越前の朝倉氏、近江の浅井氏滅亡

ここ数年の朝倉氏、浅井氏との戦で武功のあった秀吉は浅井氏滅亡後、織田信長から近江の一部を与えられて長浜城の城主となり一介の武士から城持ち大名へと異例の大出世を遂げた。

 

この年、木下藤吉郎から名を羽柴秀吉と改める。

1577年 織田信長の命により中国征伐を開始。

播磨に入り、毛利氏を中心とする反織田勢と戦をすることになる。

1578年 三木城の戦い

『三木の干殺し』と呼ばれる兵糧攻めがあった戦、三木城城主の別所長治を滅ぼす。

1580年 黒田官兵衛から姫路城の本丸を献上される。

秀吉は姫路城を中国征伐の本拠地とした。

1581年 鳥取城の戦い

兵糧攻めで吉川経家を滅ぼす。

着々と中国地方を攻略し、毛利氏を追い詰めていく。

1582年 備中高松城の戦い

備中高松城を水攻めし、清水宗治を滅ぼす。

 

本能寺の変

備中高松城攻めの途中に信長が死去。秀吉は中国攻めを中断、毛利氏と和睦して明智光秀の討伐へ向かう。(中国大返し)

 

山崎の戦い

織田信長の弔い合戦となった戦。秀吉を中心とする軍勢が明智光秀に勝利した。

明智光秀は秀吉と交戦した後に逃亡、道中、民に槍で突かれてこの世を去る。

 

清洲会議

織田信長の後継者を決める会議が秀吉含む織田家家臣たちによって行われる。

 

この後、リーダーシップを発揮しまくる秀吉が権力を強めていき、織田家の実権を握っていくことになる。

1583年 賤ヶ岳の戦い

清須会議から意見が合わず仲の悪かった羽柴秀吉と柴田勝家の間で戦が起こる。

秀吉が勝利し、柴田勝家は自害した。秀吉の権力が確固たるものとなっていく。

 

この年、本拠地を大坂城に移す。

1584年 小牧長久手の戦い

羽柴秀吉VS徳川家康・織田信雄連合軍の戦。

戦では家康が勝利するが、調略により秀吉は家康を屈服させている。

結果的には秀吉が家康の上をいくこととなった。

1585年 四国征伐

信長が果たせなかった四国征伐を行う。

秀吉は四国全土をほぼ統一していた長宗我部元親を降伏させ、四国を支配下に置いた。

 

この年、秀吉は関白という職に就く。

関白は天皇の補佐役であり、これで秀吉が日本で一番地位の高い大名になった。

1586年 天下統一はまだだけど実質天下人になる

太政大臣という朝廷トップの役職につき、天皇から豊臣の姓を受け賜る。
豊臣政権が確立する。

1587年 九州征伐

九州全土をほぼ統一していた島津義久を降伏させ、九州を支配下に置いた。

 

その後、京都に建てた豪華絢爛な邸宅・聚楽第に本拠地を移す。

 

この年、秀吉はキリシタン禁止令を出す。

1590年 小田原征伐

秀吉に反抗的だった関東の北条氏政・氏直を大軍を率いて攻めて降伏させた。
大名としての北条氏は滅亡、秀吉が関東を支配下に置いた。

 

奥州仕置き

豊臣秀吉、豊臣に反抗していた奥州の大名達の領地替えや領地の召し上げを行う。

 

大崎・葛西一揆 秀吉の奥州仕置きに不満を持つ者たちが奥州の大崎・葛西の地で一揆を起こす。無事鎮圧。

 

天下統一達成!
東北方面の仕置きが済んで反抗勢力はいなくなり、日本に争いのない時代が訪れた。

 

この年、関白の職と聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り後継者とする。
秀吉は太閤(関白を子に譲った人物の尊称)となる。

1592年 文禄の役

一度目の朝鮮出兵。

日本を統一した秀吉は明(今の中国)の征服を目指し、その玄関口となる朝鮮へ出兵する。

1593年 朝鮮での戦、上手くいかず。

日本へ兵を撤退させる。

 

豊臣秀頼、誕生
長い間子供に恵まれなかった秀吉に実子誕生。

 

秀頼を豊臣家の跡継ぎにしたい秀吉は、跡継ぎ候補の甥の豊臣秀次を邪魔者とばかりに追いやっていくこととなる。

1595年

豊臣秀次、自害す

秀吉は豊臣秀次に謀反の疑いなどがあるとして糾弾し、自害に追い込んだ。

1597年 慶長の役

二度目の朝鮮出兵、再び朝鮮に兵を送る。

1598年 豊臣秀吉、伏見城にて死去

これにより朝鮮出兵が中断される。

1600年 関ヶ原の戦い

秀吉亡き後、豊臣家家臣らの仲間割れが悪化していき全国各地の大名を巻き込んだ大戦に発展した。

徳川家康チームVS石田三成チームの構図で争い、徳川が勝利。

 

以後、徳川家が実権を握り豊臣家は転落していく。

1603年 徳川家康、征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開く。

これにより豊臣家は天下人の立場を完全に失い、摂津・河内・和泉に約65万石を領する一大名になった。

1614年 大坂冬の陣

徳川家康が豊臣家を潰しにかかる。

徳川軍が大坂城を攻めるが、この戦は和平を結び終結する。

1615年 大坂夏の陣

大坂での二度目の戦では徳川家康の完全なる勝利。

 

豊臣秀頼とその母・淀殿は自害。

豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家は滅亡してしまった。

 

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