武田信玄の年表を簡単にまとめてみた。
織田信長が本能寺の変で死去したのが1582年、
豊臣秀吉が天下統一をしたのが1590年、関ヶ原の戦いが起こったのが1600年・・・
こう見ると1521年に生まれて1573年に死去した武田信玄は、戦国時代の中でも割と古い時代に活躍した武将なのよね。
ここでは戦国武将の中でも知名度抜群で人気のある武田信玄の歴史がザーッとわかるよう、簡単に年表にまとめてみたわよっ!!
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1520年より以前の勢力図
武田信玄の父・信虎が甲斐国の守護をつとめていた頃の武田氏は甲斐一国を領していた。
父・信虎を追放してから信玄は信濃をグイグイ侵攻し、勢力を拡大させていき、1555年頃にはほぼ信濃を平定した。
1522年 | 甲斐国守護・武田信虎の嫡男として生まれる。幼名は太郎、または勝千代。 |
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1533年 | 13歳で関東の上杉朝興の娘を正室に迎える。(しかし翌年に死去してしまう) |
1536年 | 16歳で元服。名を武田晴信(はるのぶ)に改める。
公家の三条公頼の娘を正室に迎える。
初陣もこの年。隣国の信濃を攻め、初陣にして殿をつとめて城を落とすという武功を挙げている。 |
1541年 | 父・信虎を駿河へ追放、武田家の当主となった。
この後、本格的に信濃攻略に乗り出す。 |
1542年 | 信濃へと侵攻、信濃中部の国人・諏訪頼重を降す。
諏訪頼重は切腹、その娘は信玄の側室となった。 |
1545年 | 信濃へと侵攻、高遠城、福与城を落とす。
有力国人である高遠氏、藤沢氏が武田に降る。 |
1546年 | 信濃・佐久に侵攻、小勢力を次々に討ち破り佐久を手中におさめる。 |
1547年 | 国を治める為の法律、『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)』を制定する。 |
1548年 | 上田原の戦い 北信濃の国人・村上義清を攻めるも敗北といっていいほどダメージをくらって撤退する。 |
1550年 | 信濃の守護大名・小笠原長時の本拠地である林城を落とす。
この年、村上義清の戸石城を攻めるも敗北する。 村上氏に再び破れたこの戦は戸石崩れと呼ばれている。 |
1551年 | 家臣の真田幸隆が戸石城を落とす。
その後、村上義清の最後の砦である葛尾城を攻める。 武田信玄が勝利、村上義清は越後の有力大名・長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り越後へ逃亡した。 |
1553年 | 川中島の戦い 信濃・川中島で武田信玄と上杉謙信が戦う。
記念すべき一回目の『川中島の戦い』。
この後、武田信玄と上杉謙信は何度も川中島で戦をすることとなるが、結局両者の間で決着が着く事はなかった。 |
1554年 | 三国同盟が成立する。武田氏、今川氏、北条氏の間で平和協定を結ぶことで、それぞれがそれぞれの敵と戦いやすくなった。 | 1555年 | この頃までに南信濃の国人・木曽氏を降伏させている。 |
1554年頃の勢力図。三国同盟を結ぶ。
武田氏、今川氏、北条氏で三国同盟を結ぶ。
この三国同盟を結ぶメリットは、
武田氏のメリット
背後の北条氏と今川氏から攻められる心配がなくなるので、上杉氏との戦、信濃の攻略に集中できる。
北条氏のメリット
同じく武田氏と今川氏に怯える事なく上杉との戦、関東の攻略に集中できる。
今川氏のメリット
同じく武田氏と北条氏に怯える事なく尾張の攻略に集中できる。
…といった感じであった。
越後の長尾景虎は武田信玄と北条氏康という大勢力を二つも相手にするので大変…!
ちなみに1561年、長尾景虎は関東管領だった上杉憲政から、関東管領の職と上杉家の家督を譲られる。
(上杉憲政は北条氏に攻められて関東を追われた。)
ここで我々がよく知る『越後の上杉氏』となった。
1560年に今川義元が死去すると三国同盟も崩壊していく。
義元の死によって今川氏が弱体化したのをいい事に、信玄は1566年には上野へ侵攻している。
当然、武田と北条の関係は悪くなり、北条はこれに対抗するために上杉と手を組むこととなる。
近隣諸国で同盟組んだり破棄したり、また新たに同盟関係できあがったり…と情勢がコロコロ変わって大変…!
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1555年 | 第二回・川中島の戦い |
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1557年 | 第三回・川中島の戦い |
1559年 | 出家して名を晴信から『信玄』に改める。 |
1560年 | 桶狭間の戦いで同盟相手の今川義元が織田信長に討たれる。 |
1561年 | 第四回・川中島の戦い 川中島の戦い史上一番白熱したのが、この第四回目の戦と言われている。
武田信玄と上杉謙信が一騎打ちした…なんて伝説がある。 |
1562年 | 同盟相手の北条氏康と共に上杉氏を攻める。 |
1564年 | 第五回・川中島の戦い この戦もハッキリとした決着がつかなかった。これが武田信玄と上杉謙信の最後の戦となった。 |
1565年 | 飯富虎昌ほか武田家家臣の一部が信玄暗殺を企てているとしてその首謀者達を処刑する。
飯富虎昌が信玄の長男・義信(よしのぶ)の傅役だった為、謀反に加担しているものとして義信を嫡廃、幽閉した。 義信はこの2年後に自害する。 |
1566年 | 上野へ侵攻、箕輪城を落とす。 |
1567年 | 武田氏と織田氏の間で同盟を結ぶ まだ幼い武田信玄の娘・松姫と織田信長の長男・織田信忠が婚姻を結ぶ。 がその後、2人が顔を合わす前に武田と織田が敵対関係になってしまい、結婚は実現しなかった。
武田信玄、同盟相手の今川氏を裏切り攻め込むことを決める。
この頃、上杉謙信から塩を送られる。 |
1568年 | 三河の徳川家康と図って今川領を侵攻。
武田信玄は駿河を攻め、城を次々と落としていく。 翌年、今川氏は滅亡する。
この頃、同盟相手だった北条氏との関係も悪化する。 北条氏は武田信玄を脅威と見て上杉氏と同盟を結んだ。 |
1568年頃の勢力図
今川氏真の代になると武田信玄は今川氏を裏切って攻め込み駿河をゲット、領地をどんどん拡大させていった。
1570年 | この頃、勢いを増す織田信長を倒すべく将軍・足利義昭が浅井氏、朝倉氏、本願寺、一向一揆衆と手を結び信長包囲網を形成する。
武田信玄もこれに同調している。 |
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1572年 | 足利義昭から信長討伐の総大将に任命され、兵を率いて京を目指す。
途中、徳川領の遠江・駿河に侵攻して徳川勢の守る城を次々と落としていく。
三方ヶ原の戦い 徳川領である遠江に侵攻。徳川家康に勝利する。
織田信長の同盟相手であった徳川家康を攻めたことにより、武田と織田の関係が悪くなる。 松姫と織田信忠の婚約解消の原因が、こういった状況の悪化によるものであった。 |
1573年 | 三河の野田城を落とす。 この後、武田信玄の病気が悪化した事で京へ行く事を断念、甲斐へ戻ることとなる。
しかし、信濃に辿り着いた頃に危篤に陥り、そのまま息を引き取る。享年53。
その後は息子の勝頼が武田家の当主となる。 |
1575年 | 長篠の戦い 織田・徳川連合軍と戦い。
武田軍が敗北、武田家はどんどん衰退していく。 |
1582年 | 甲州征伐 織田信長が本格的に武田氏を潰しにかかる。
追い詰められた武田勝頼は自害。一大勢力を誇った武田氏はここで滅亡した。 |
1572年頃
徳川領に侵攻、徳川領である三河、遠江の一部をゲット。
その後、武田信玄は京を目指すも1573年に病気の悪化により死去。
ここまで大きくなった武田氏だけど、跡継ぎが変わって10年で
↑こうなっちゃうんだから戦国時代って凄い・・・!
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