武田信玄の最後とその後の武田家の行方
武田信玄の最後の時について…。武田信玄が亡くなったのは1573年、享年53歳でした。
信玄は1571年頃から徳川家康の領地である遠江・三河に侵攻し、遠江・三河の一部を武田の支配下に置きます。
その後、本格的に打倒織田信長を掲げた将軍・足利義昭に会う為に京へ向かうのですが、病気が悪化して歩くのも困難な状況になってしまった為にやむなく甲斐へ戻ることに…。
帰国途中、信濃の地で危篤に陥り、運ばれた先の長岳寺(ちょうがくじ)という寺で息を引き取りました。
武田信玄の死因については、肺結核、肺炎、肝臓病、胃癌、食道癌・・・など諸説あるみたいです。
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信玄は自分の死を悟ると、跡継ぎの勝頼を枕元に呼び、
三年間はワシの死を隠せ。武田信玄が亡くなったとなれば大名達は必ず甲斐に攻め込んでくる。
武田家は信勝(勝頼の子)に継がせてやれ、お前は後見人となって信勝を支えるように。
そして何かあれば上杉謙信を頼るのだぞ。
武田家は信勝(勝頼の子)に継がせてやれ、お前は後見人となって信勝を支えるように。
そして何かあれば上杉謙信を頼るのだぞ。
と遺言を残しました。
遺言通り、武田信玄が亡くなった事は公にされず、葬式も没してから三年後の1576年に行われました。
が、武田信玄の死は他国の大名達にバレていたようです。
突然の進路変更は『何かあったのか?』と当然疑問に思われますし、武田氏ほどの大勢力となると常にその動向も注目されるものです。
1575年には、三河・遠江の領地を巡り武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍が三河の長篠で戦となります。
※武田勝頼が徳川側の武将・奥平信昌の守る長篠城を攻める。長篠城は500ほどしか兵がおらず、1万以上で攻めていた武田軍が有利だったが織田・徳川連合軍が4万を超える兵を率いて援軍に来て状況が一変。織田軍は当時最先端の武器であった鉄砲を用いて最強と言われる武田の騎馬隊を撃破、武田軍はボロ負け。長篠の戦い以降、武田氏は衰退していくこととなる。
その数年後の1582年には、織田信長、徳川家康、北条氏直の三大勢力が武田の領地を狙って攻めてきました。
大ピンチどころではない武田勢、城は次々と落とされ、武田の兵たちも終いには勝頼を見捨てて逃げ出す始末…。
そんな中で最後まで戦ったのが、武田信玄の五男・仁科盛信でした。
しかし、仁科盛信の守る高遠城も織田軍の手により落城します。
勝頼は武田家ゆかりの地である天目山を目指して逃亡しますが、織田軍の追っ手から逃れられず、妻子と共に自害…。
武田信玄の死から10年も経たない間に武田氏は滅亡してしまったのであります。
おまけ・なぜ四男の勝頼が武田家を継いだのか?
普通であれば家を継ぐのは長男、次男と上から選ばれるものですが、武田信玄の跡を継いだのは四男の勝頼でした。
なぜ四男であるのに跡継ぎとなったのか??というと…
長男の義信は信玄とのいざこざがあり切腹して死去。
次男の信親は盲目であった為に出家した。
三男の信之は若くして死去した。
…といった事情があったのですよ。
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